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祖父とじいちゃん【2012.09】
特別養護老人ホーム 高橋 菜摘

 特養ユニットほくとの利用者Tさんに私は「じいちゃん」と呼びかけることがある。すると「なんだぁ?」とデレデレの時もあるが、「うるせぇ!」と怒鳴ることもある。私も甘えたり怒り返したりしながら付き合ってもらっている。Tさんと接しながら、私はいつも亡くなった祖父を思う。祖父を「じいちゃん」と呼んだことは無いし、怒られたことも、甘えた覚えもない。私と祖父は遠慮のある遠い関係だった。
 私が小学校4年生の時自宅を新築し、祖父母と同居生活が始まったが、二人とも元気で日中は働いていたので、時間を共にするのは、食事と夜だけだった。どこか距離があって会話は挨拶程度で、しかも敬語でしか話せず、母も水くさいと感じたのか「なんで?」と言うのだがそれは変わらなかった。
 私の家は兼業農家で、農繁期には家族全員で田んぼの作業を手伝った。父は単身赴任で週末しか居ないため、米作りの中心はずっと祖父だった。鋭く指示を出し、細い身体で、稲を干すホニオの棒をズドンと田んぼに突き刺す姿は、カッコ良かった。でもそれを祖父に言葉にして伝えることはできなかった。
 母は、祖父母を「遠慮しすぎで困る」「もっとわがまま言ってくれたほうがいい」とため息をついた。私も「オラたちはいいよ」とか「何でもいいよ」と引いている姿が切なくてイヤだった。あるとき祖父母の通院のため病院に送って「終わったら電話して」とスーパーで買い物をしていた。30分くらいで父が「そろそろ病院行ってみよう」と言った。「電話ないから、まだじゃない?」と私は言ったが、病院に行くと玄関で祖父母が待っていた。買い物の邪魔にならないよう気を遣って電話をせずにいたのだ。祖父母は遠慮ばかりしていて、私たちもそれに合わせて気を遣った。
 私が大学に入った頃、祖父は力仕事が出来なくなり、田んぼに木を突き刺すのは父の仕事になったが、もう抜けないのではないかというようなあの「ズドン!!」の音は父には出せず、ホニオは不安定で頼りなかった。
 ある日の夕食、いつも一番早く食べ終る祖父がキッチンに食器を下げに私の後ろを通った。私がイスを少しだけ引くと「ありがとうございます・・」と小さな声が聞こえた。その瞬間、走って逃げ出したいような、頭を床につけて謝りたいような気持ちにさせられた。祖父には親しい人付き合いはなく、兄弟とも年が離れ親しい交流はない。親戚が集る席では、いつも角に静かに座っていた。趣味もなく、唯一の贅沢は『現代農業』を購読していることだった。祖父の大好物が餅だったということを、亡くなる数ヶ月前に知り、孫は私たち兄妹二人だけなのに、なんてひどい孫だろうと悔やんだ。
 一時期祖父が歩けなくなったことがあった。田んぼに出られなくなり、一日中リビングのソファに座っていた。何も喋らず、ただじっと座っている祖父にやるせなさを感じた。その夜、祖母の声がするので部屋に行くと「立てないんだから、オムツにオシッコしろって言ってるのに、トイレに行くってきかない」と祖母は怒っていた。見たことのない「祖父のわがまま」だった。私は「おじいちゃんがしたいようにしよう」と祖母と二人でトイレを手伝った。そのとき祖母が「ごめんね、ありがとう」と言った。祖父はたぶん、何も言わなかったと思う。翌日父からも「ありがとう」と言われた。その後、祖父はまた歩けるようになったのだが、私が大学3年生の冬に倒れ、救急車の中で息は吹き返したものの、病院で亡くなった。
 「最後まで、迷惑をかけない人だったね」とみんなが言った。祖母はそれが嬉しいようだった。祖母の日記を見せてもらったことがあるが、「皆に迷惑かけないように早く逝ってほしい」という内容が綴られ、亡くなった日には、ホッとした感じが書かれていた。そして自分も迷惑をかけずに早く逝きたいということも・・。
 祖父は自分の葬式代を蓄えていた。葬儀が終わると通帳には小銭が残った。亡くなるその年まで田んぼに立ち、父や家族に教えながら働いた。葬式で父は「僕が子どもの頃、冬は仕事がなく父は出稼ぎに行っていました。吹雪で、道らしい道も無い中を歩いていく父の後ろ姿を覚えています」と語った。私の知らない話だった。家族のために、ひたすら無口で頑張ってきたのだ。贅沢どころか必要なものすら我慢して。祖父母からもらったお年玉や誕生日プレゼントを、私は何に使ったのだろう。なんでもっと話さなかったのだろう、なんでもっと祖父を知ろうとしなかったのか・・祖父への後悔は山のようにある。
 去年社会人になって、特養ホーム「ほくと」の利用者Tさんと出会った。その頃のTさんは、「まんま持ってこ!」「便所どこだ!」を繰り返し、一食に七杯もご飯を食べ、毎日のようにお腹を下していた。そして「うるせぇ!」「ばか言うな!」「さみーぃ(寒い)!」と怒り散らしていた。なんでも怒っていた。祖父が亡くなって一年ほどだったが、私はその違いに「こんな高齢者が存在するのか!」と衝撃を受けた。私の『おじいちゃん』は、おかわりはしなかったし、私が大皿からおかずを取ろうとすると、皿ごと私にくれた。Tさんは祖父とは真逆で、私にとって新鮮だった。
 Tさんは、他事業所のショートステイやデイサービスでも、怒ってばかりいるためか、「騒ぐ」とか「暴れる」というので昼までもたず、返されてしまったし、利用を断られてきた。でも付き合うとかわいいところもあって、Tさんの中で私が「孫」や「娘」のイメージで入ると「かわいいねぇ」「いい子だねぇ」とデレデレして撫でてくれた。昔、私は友人が「おばあちゃんとケンカした」とか、「じいちゃんがうるさい」などと言う話を聞いて、羨ましかったことを思い出した。Tさんは、私が持っていた願望を満たしてくれたのかも知れない。それから一年やりとりして付き合っているうちに、Tさんはすっかり怒らなくなり、おかわりも減り、さらにかわいいおじいちゃんになっていった。怒ることで自分を守る必要が無くなってきたのかなと思うし、何を守っていたんだろうとも考える。
 私はTさんを「じいちゃん」と呼びたくなって、ある日ふいに口に出た。私はそれから、その場のお互いの気持ちで、「じいちゃん」と呼んだりするようになった。そのうち、いつの間にか他のスタッフも「じいじ」とか「じっちゃん」とか呼ぶようになった。「じいちゃん」と呼ぶようになって、よくケンカをするようになった。それは楽しかったり、逆にとても苦しくなってそばに寄れなくなることもある。私は『じいちゃん』と接する中で、『おじいちゃん』を思い出し、重ね合わせて喜んだり、切なく感じて泣きそうになったりする。
 じいちゃん』ことTさんは、ただ自由にわがままに生きているわけではない。じいちゃんの抱える切なさも日々伝わってくる。じいちゃんは何をしたいんだろう。そして、私のおじいちゃんは遠慮して我慢して満足だったのだろうか。この話を先輩スタッフの真白さんにしたら「おじいさんは、あの夜のトイレのことがあっただけで、救われたと思うよ」と言ってくれた。おじいちゃんが、頑なにトイレに行きたいと言い張ったとき、私がおばあちゃんに同調せずに、トイレに連れて行けたのは、「本人の気持ちを尊重する」という授業で学んだ「知識」が後押ししてくれた事は確かだった。でも、今そのことを考えると、遠慮してばかりだったおじいさんの唯一とも云える「我が儘」をかなえてあげたのかもしれない。とするなら私にとって、唯一の「おじいさん孝行」だったと思う。そのことを真白さんが認めてくれたようで、とても嬉しかった。
 私は、Tさんと居て祖父のことを考え始めると辛くなる。それは、私が祖父と向き合うことであり、自分と対決することでもある。でも、厳しいが逃げたくはない。ユニットの現場で、真白さんをはじめ、ほくとのスタッフに見守ってもらいながら、焦らずじっくりと対峙し自分を育てていきたいと思う。
 
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