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未来へ向けて【2012.09】
理事長 宮澤 健

 12年間、現場の最前線で挑戦し、自分としては、斬新で画期的な活動をしてきたつもりなのだが、周囲からは常に異端児扱いで敬遠されてきた。宮沢賢治が法華狂いと揶揄され、啄木が石持て追われた地域なのだから、いじめられるのは本物である証拠だと自分を慰めてきたのだが、寂しさはある。来年、認知症高齢者グループホーム協会の全国大会が岩手で予定されているというので、せっかくなら今後10年、20年先を見通すような内容のある大会にしたいと意気込んだが、それは通じず、シラっとした空気が満ちている。岩手にも中央にも見識を持ったリーダーは不在なのだ。末端の現場の息吹や課題を拾い上げる事のできない組織は無用で、多くの人を迷わすだけの弊害をもたらし協会の未来はない。組織は、時代や現場をリードできなければ形骸化し自然と信頼を失い人々から忘れられるだろう。個人にせよ、組織にせよ、感動が必要だ。それがないまま自己愛的な生き方ばかりで突き進めば、いつかその主体は滅びる。他者と交流したり,こころの中にある対極性の間で揺さぶられるようなことがなければ、いきいきとした生命のエネルギーは生まれてこない。生命のエネルギーが湧き上がるような話を同業者と話したかったが、それは望めないことのようだ。
 何年も前から、同業者とは違和感と嫌悪感がつのり、そうした空気に嫌気がさして敬遠するようになった。しかしこのままでいいのか、何とかならないかという思いは常にあるのだが、結論は、通じる人と繋がりながらやっていくしかない。そうでなければこちらも腐ってしまいそうな重く暗い空気にやられてしまう。わかる人は説明をしなくても解るし、わからない人はいくら説明しても本質的には通じない。
 里の取り組みを理解をしてくれる人は少数ながら当初からあった。全国に散らばっているが、これからは、そうした人たちを探して繋がりながら、ネットワークを組みたてていくことが必要ではないかと考えている。
 数年前、遠野物語出版100周年記念の行事が遠野であった。その時、大江健三郎氏が講演をされた。文体と推敲について語りながら、そろそろ日本人はダブルスタンダードを止めようという話だった。平地人の代表である柳田国男が平地人に遠野物語を読ませたいとして、「平地人をして戦慄せしめよ」と言っているのは見事なダブルスタンダードだ。そこで、大江氏は現代の遠野で地元の文体で新たな遠野物語を作ってもらいたいと期待をよせた。しかし現実に我々は何を語りうるのだろうと途方に暮れる。語り部が残っているのは救いだが、夜な夜な物語が伝えられた時間は、すでにテレビやゲームに置き換わり、我々に独自の文体が生き残っているのだろうかと心許ない。
 ある時、里の現場の膨大な聞き書きは、もしかしたら現代の遠野物語になりうるのではないかとふと感じた。日々繰り返される語り、日々起こってくるエピソードとリアルな物語。日誌は膨大なテクストを記録し積み上げられている。そのひとつひとつは物語として世代を超えて何ものか重要なたましいを伝えているという確信がある。まさに平地人にはおよびもつかない戦慄すべき世界の顕現がそこにある。
 「これは現代の遠野物語になりうるのではないか」という問いかけを、誰にすれば答えてくれるのだろうか。私はそれは赤坂憲男先生しかいないと思った。 赤坂先生とは、6年前、日本ユング心理学会の講演に前川さんが参加して感動して帰ってきたのが最初だった。それから何度か先生の講演に接してきた。2007年には河合隼雄先生の一周忌の講演会に里から6人が参加し、印象的なお話しを伺った。通信でも、赤坂先生の現代人の死の儀式の幼稚さを指摘した文章に刺激されて、施設長が20代前半で経験した富山の山奥の盆踊りを想起したことを書いている。直接先生とお話しをしたことはないが、この数年、講演や本で親しみ、身近に感じてきたのだった。
 長年、赤坂先生は山形芸術工科大学におられ、隣の県であり、東北学の創始者として、東北から離れることはあり得ないと思っていつか訪ねて行くつもりでいた。過去の通信を冊子にして、赤坂先生に読んでもらおうと準備を始め、今年の春に冊子は完成した。さてどうやって渡すか迷っているうちに、赤坂先生は山形を離れて学習院大学に移られた。福島県立博物館の館長や復興委員会の委員にもなられて、忙しそうな様子に躊躇していたところ、この6月に六車由実さんの『介護民俗学』に出会った。六車さんは東北文化研究センターに所属しておられた経歴があり、まさに東北学の本拠地、赤坂先生のお膝元にいた方ではなかったか。何かが通じているような気がしてきた。
 六車さんの『介護民俗学』の提唱は介護業界にとって革命的な出来事だ。民俗学や文化人類学などのフィールドワークでは、実際に現場で話を聞いて入り、そこで生活することが研究の姿勢として貫かれている。生半可な姿勢で話は聞かないという研究者の精神と知性は、介護現場で人間の重要な何かが発見されうるという新たな地平を開いた。これまでの伝統的な介護現場では、介護作業に終始し、高齢者や認知症の人の言葉を適当にごまかしてきた。六車さんは「聞き書き」という具体的な概念を提示され、その実践と成果が明示された。平易で解りやすい表現も現場向きでありがたい。さらに重要なのは、現場に「主観」を持ち込んだということだと思う。近代以降、科学の全盛の時代が進む中、あらゆるものが客観視される傾向にある。峻厳な客観性が科学の神髄としてある。そこでは高度な普遍性が求められるあまり、個人の感情や感覚は排除される。科学的思考は強力且つ有効で、決定的に人類の役に立ち続けてきたが、その悪弊が目立ちつつあるのだが反省はされないまま、我々の社会は突き進んでいる。
 事実として介護計画、ケアプラン、介護記録、第三者評価、情報公表、なにひとつとして、そこに生きている人間を見ようとはしていない。そこにも客観的な対象化と操作主義に縛られた我々の社会が透いて見える。全てが人間の命のありようとその関係を切り刻む姿勢に貫かれていると言っていい。それが現状なのだ。それらと関わる度に、里のスタッフは深い傷付きを感じるし、現実にスタッフと利用者の関係性をも傷つけている。それが制度上致し方ないアプローチであったとしても、それが内包する暴力性や、相手の傷に対して、かなりの次元で意識的でなければならないと思う。そこに意識的であることこそ、本来の科学性だとも思う。六車さんの実践と提唱は、そんな時代に主観と関係を持ちこんだのは革命的なことで、介護現場や業界を越えて、現代の社会にとって極めて重要なことだと思う。
 感動のあまり、通信を六車さんの出版社に送った。まもなく六車さんからメールが届いた。六車さんも例の「驚き」を駆使して通信とその内容に共感し、そして里の実践に関心を持っていただいたようだった。早速この20日に里にお迎えできることになり、2日間お話しをする機会を作っていただいたのでスタッフ一同とても楽しみにしている。
 六車さんとの出会いに湧いているさなか、遠野で「柳田国男国際フォーラム」が開かれることが解った。遠野の「遠野文化研究センター」の所長が赤坂先生だということも知った。これは、参加しないわけにはいかないと、改めて遠野物語を読み直したりしながら、職員研修ということで、スタッフ7人で参加した。初日のシンポジュームが我々にとって盛り上がりに欠けたのは、研究者達の科学的、分析的アプローチの姿勢に終始したところにあったと思う。会場からの質問も民俗学と文化人類学の違いといったラインでの質問が多かった。私は質問票に二つ書いた。ひとつは国際フォーラムだからか、柳田の民俗学を世界に認識されるにはどうすればいいかという話題が出たのに対して、『日本には「秘める」ということがある。世阿弥も「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と言っている。大事なことは秘すことで、守り深めようとする文化があったのではないか。秘仏、ご開帳などと、秘す行為によって、重みや深みを演出している。秘伝の味、とか、門外不出などと内輪に止めて、守り深まることもあるのではないか。光を当ててしまってはたいしたことのないものも、隠すことで力を持つ事もあるのではないか。柳田の民俗学もそうした意味で秘すことで深めていく方途を探れないだろうか』というちょっ とふざけた提案をいれた質問だった。シンポジュームのなかで、赤坂先生の講演にあった、「たましいの行方」についてもっと詳しく語って欲しいという質問があった。先生は「私がこの質問に答える代わりに何人かの会場の言葉から」と言われて、私のこの質問を取り上げてくれた。同時に取り上げた質問は「境界の重なりにグレーゾーンができる。そこは言葉の説明ができない場所だ。説明が効かないグレーゾーンにアプローチしていくなかで、日本人の深い部分に迫り、バラバラになった個を繋いでいく何かが発見できるのではないか」という質問だった。これは同じ事を言っていると思うと述べ、言葉で表すことよりも秘められたことに価値や美を見いだそうとし、ある意味、外の世界とは背を向ける形になるが、普遍的な議論の枠組みからくみ取れるもので明らかにしていく学問ではなく、見えないものの深いところへの欲望といえるような日本人独特の文化感覚をどう思うかと英語圏の研究者に振った。 「たましいの行方」を模索できるかと思いきや、英語圏の研究者はおそらくその質問の意味自体が解らなかったのではなかろうか。「日本人が特別に深い所を欲するというのはマチガイだ。人間は生物学的に世界共通」という反応でこの話は終わってしまった。その研究者は遠野物語を英訳した人で、会場で「遠野物語は西洋の物語と比べると物語の形になっておらず、起承転結がなく結論がないまま終わってしまう」と述べているので、日本の文化の特徴をとらえながらも、その違いに関心は持てないのだろうかと残念だった。遠野物語は、ポエムなのか、レジェンドなのかそれとも・・と分類分けに終始したがるからつまらなくなる。明確に分類されたとたんに個々の人生とは関わりがなくなってしまう。赤坂先生はそれを「遠野物語はカオスなんだ」と言われたのはスカッとした。だからエネルギーが湧くし、引きつけると言うわけだ。カオス(混沌)といってしまえば乱れているようだが、それは原初的な統合でもある。ところでもう一つ質問は前川さんだろうと施設長に話していたらやはりそうだった。多くの質問の中から、里から上がった二つを選んで「たましい」の課題として提起してくれたのはさすがに赤坂先生だ。こうした通じる感覚が赤坂先生にはある。他の学者先生にはまったく通じないのも印象的だった。初めて先生に接した里のスタッフも「赤坂先生はいい」とすっかりファンになったようだ。
 シンポジュームが終わった会場で、失礼ながら赤坂先生に声をかけ通信を渡すことができた。東京に帰るのに、重い荷物を背負わせてしまったが、私としては長年の目的を果たせた。施設長は、来年、岩手で開催予定の全国グループホーム大会への参加をお願 いした。「呼んでください、行きますよ」という返事だった。ありがたいことだ。通信を渡したとき、先生から即座に「六車というのがいてね」と言われたので「はい繋がってます」と応じた。「そういうことやっている人もいるんだ」と言われたので「初めて同じ感覚のアプローチに出会ったと思います」と応えたが、これからこの出会いはどう育っていくんだろうとときめくものがある。
 余談だが、八月の終わりに佐渡に行った。以前から関心はあったが今回初めての訪問だった。わずか一泊の短い滞在だったがいろいろ感じた。佐渡と聞くと、冬の厳しい寒さと横殴りの雪を思い浮かべるのだが、今年の猛暑もあってか佐渡はまるで熱帯の島だった。海は深く青く、穏やかで、海産物にあふれ、島の中央には割と広い平野が開けて農地も広い。歴史上、豊かな暮らしが営まれてきたに違いない。新潟の港の職員は高齢者がほとんどだったが、丁寧で好感が持てた。ゴミ箱を探していると「お預かりしましょうか」と言われるので恐縮して断ったほどだ。
 島に着くと、佐渡おけさの看板やモニュメントが目立った。金山などの史跡をたずねて夕方ホテルで食事をしていると、佐渡おけさが始まり、相川音頭などが披露された。それを見て打たれるものがあった。踊り手は傘をかぶって姿勢もうつむき気味なので、表情どころか顔も見えない。元気よくはねたり、飛んだり声を出したりは一切しない、淡々と静かな踊りは、舞に近かった。源流は鹿児島と言うが、佐渡の祈りを感じた。歴史上、流刑の地であり、様々な運命や社会の葛藤に翻弄された人々を迎え入れてきた佐渡、全国から集められ、金山の坑道で厳しい労働に明け暮れ短命で亡くなった無数の人々。坑道の距離は400kmにも及ぶといい、鉱脈の山は削られて真っ二つに割れていた。岩盤をノミとゲンノウだけで人が手でやったとは思えない。江戸時代には北前船で多くの船乗りや商人が中継地として幾多の思いを抱きながら島に立ち寄っただろう。長い歴史を通じて、多種多様な人間とその過酷な運命を受けれてきた佐渡の心は、波間を漂うようになににも逆らわず、静かに哀愁漂うおけさや音頭で人々を癒し続けてきたのかも知れない。それは深く静かな祈りのように私には感じられた。翌日は有名な、佐渡国際トライアスロンの大会の日だった。おけさの踊り子達が去った舞台に現れた司会の女性が、「明日はトライアスロン頑張ってください」と語り、鉄人達の戦いさえも静かに受け入れている佐渡がそこにあった。「静かに祈りながら舞い続けること」過酷な運命を癒すおけさのような美的な所作が今求められていることのように感じた。
 
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