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六車由実著:『驚きの介護民俗学』に触れて【2012.08】
理事長 宮澤 健

  先月この本に出会って、1回目を読んだとき、著者、六車さんのスタンスが、あまりに銀河の里の向きあい方と近いので、当たり前のように入ってきて、こともなげに読んでしまった。再び読み返してみると、これはものすごい本が介護業界にたたきつけられたのものだと気がつく。さりげない平易な言葉で、介護現場の新たな方向を照らし出した衝撃的な著作だと震えてくる。これは介護業界にとって革命的な著作だ。今後、介護関係におけるあらゆる専門家諸氏はこの本を抜きにして語ることを許したくない。介護関係者は何はともあれ一度この本を読んでから全てを考えてもらいたい。いままで介護関係者、業界関係者は何をやってきたのだろうと、この本の前に恥じ入るべきだとさえ思う。
 当初はそのタイトルから「介護民俗学」にこちらが驚かされるのかと思ったのだが、そうではなくて、「驚き」、つまりおののきやときめきも含めて人間の感情としての「驚き」が介護民族学を成立せしめるのだということが本の終盤に述べられている。介護現場で聞き取りを記録し、原稿を書いてきた著者がある時、全く書けなくなった時期があったという。本人にもその原因は明白で、「驚かなくなった」からだと言う。特養のユニットに配属された著者はその現場の忙しさに「驚けなくなったと言うより驚かないようにしていたと思う」というのだ。つまり驚いていては仕事が回らないから、驚くことに対して禁欲的になってしまったのだ。
  著者、六車さんをして驚きを止め、全く書けなくしてしまう落とし穴が現場にはあるという事実は、現場の厳しい現実を露わにしている。さらにそこでは、介護作業そのものの快感に酔いしれるという誘惑もあることが明かされる。おむつ交換などの介護作業が丁寧にしかも完璧に仕上がることの快感はある種の充実感、達成感として到達点を感じさせる。ところがそこに止まれない理由がある。それは我々が現場で対する相手が生きた人間だということに尽きる。例えばこれがビル清掃の仕事であれば、到達点は作業の仕上がりにあって然るべきで、そこで目的は完璧に達成される。しかし、対人間の場合、そこで止まっていいのかと言われると、そこにとどまることは暴力的であると言わざるを得ない。六車さんも作業を完遂する快感に酔いしれながら、そこに止まることなく、「驚き」を取り戻していく。「技術に酔っていた時には利用者の存在が希薄になった」と言い「驚きのままに聞き書きを進めているときには利用者が立体的に浮かび上がってきて、人としての存在がとてつもなく大きく感じられたのが嘘のようだった。なんだか私は自分が恐ろしくなった」と告白する。我々は驚きに従って記録し書き続けなければならないのだと思う。そこに人間の生きた歴史と脈打つ命があるからには、それを見つめ驚き続けなければならない。
  民俗学がなになのか私には正確な知識はない。『遠野物語』だと言われればなるほどと思うがそれでもわかった訳ではない。ただ「平地人をして戦慄せしめよ」という言葉は好きだ。そこに民俗学の神髄があるとも感じる。柳田からみれば、当時ヨーロッパに留学しているエリート達を平地人と言っているのだから、西洋の学問を学んでいる人たち、もっと言えば近代科学そのものに対して、日本の伝統的な文化の価値を問おうとしているとも言えるのだろう。小林秀雄は民俗学を指して「あれは科学なんかじゃありませんよ」と言っている。
 そして、柳田の若い頃の体験をふまえて、「ああそうかわかったと思った」という。それは柳田が神社のご神体に触れて異界に引き込まれた体験を語る下りがあって、たまたまその時ヒヨドリが鳴いて、その声に我に返るのだが、そこでヒヨドリが鳴かなければそのまま狂っていただろうという話に、「わかった」と小林は言い「そういう感性がなければ民俗学などという学問は生み出せないのだ」と言っている。
  つまり感性の学問だと言っているのだと私は理解する。感性、つまり主観で成り立つ学問だということだ。ここに今日の救いがあるようにさえ私は感じてしまう。なぜならば、介護現場に入る施設監査も第三者評価もマニュアルしか関心がない。我々の社会と時代はそんなものでしかなくなってしまっているということだ。マニュアルと記録しか求められない。何でも操作主義で動かせると勘違いしている。それが人間や生命に対していかに暴力的な態度かということに気がつきもしないでいる。そこでは主観や感性が取りざたされることは一切ない。今の我々の社会は、人間の精神と命に対する、見えない大量殺戮を知らず知らずのうちに進行させているのだ。
  おそらく民俗学という学問は近代科学と対峙して出てきた学問ととらえていいのだろうと思う。私は学問の『陰影礼賛』だと勝手に解釈している。だから、個人の「驚き」が出発点となり、それが許される。そこが最重要視されるところが今どき新しいと感じる。現代において主観の登場は、科学とは全く違う次元を拓く可能性を感じさせて、それが私には新鮮で眩しい。  
   著者の六車さんは現在、出身地、静岡県内の特養で介護職員として勤務している方だ。彼女には経歴として東北芸術工科大学の准教授で東北文化研究センター研究員だった前職がある。専門は民族思想論ということで民族学研究者である。2003年の著作『神、人を喰う 人身御供の民俗学』はサントリー文芸賞を受賞した著作で、研究者としてれっきとした第一級の実力者なのである。その人がその知見をもって、介護現場に入ったこと自体、事件に近くて面白い。実際、今の日本の介護現場にはそうした知性や感性が欠落していて、しかも現場には切実にそうしたことが必要とされている。
  銀河の里では当初から、原則として介護施設経験者と介護資格者を極力敬遠してきた。開設初年度は、経験者と資格者を軸に始めたのだがその両者に痛い目にあった。まったくの介護屋に成り下がってしまう感じがあり、非対称性の強固な位置づけの中で高齢者はモノのように扱われ、こちらはひどい傷つきを覚えるのだが、当人は当たり前として疑問さえなかった。既存の介護現場は介護者養成機関の実習現場でもある。そこを経てきたほとんどの人には、すでに人間を立体的には見えなくなってしまった何かがあった。その人たちと一緒にこれから先仕事ができるわけがなかった。2年目からは、介護職の資格は問わず、採用にはむしろ何らかの専門性か素人性を重視した。つまり、文学でも歴史でも芸術でも何らかの専門を持っていて、その視点から人間を見つめるまなざしや切り込みを期待したのと、技術も知識もないまっさらで、人間として向きあうことを期待した。組織として当初は、資格者配置基準に困ったが、今では生え抜きが資格を持つようになりそれにも困らなくなった。今後もその路線は原則変わらない。その方向がまちがっていないことを、民俗学の視点で切り込んだ六車さんの実践が証明してくれている。
  「女の生き方」の章の中で彼女はかなり自分を語る。「35歳を過ぎたころだったろうか、自分がこれからどう歳を重ねていったらよいのか、ということを考え始め、その見通しががまったく立たないことに大きな不安を持ち始めた」と。結婚して、子どももいてもいい年齢なのに、「まだ私自身は何も将来の人生設計ができていないという現実に直面して愕然とし、突然深い霧の中に迷い込んだような気持ちだった」と述べている。それまで研究の調査では男性に話を聞くことが多かったのだが、「でもその時からは、研究のためというより、むしろ自分がこれから生きていくためのヒントを得たいというより、すがりつくような思いで女性たちに話を聞くようになっていった」
  ここはとても大事なところだろうと思う。彼女の仕事、つまり「聞き取り」は自分のためだということ、しかも「自分がどう生 きるのか」ということに対してすがりつく思いで話を聞くのだ。
  下手にプログラム化された教科書的な回想法メソッドなどとは次元の違う出発点がそこにはある。客観化や対象化が入り込む隙のない次元からのアプローチだと言っていい。当然相手の反応も語りも、全てが生命的なダイナミズムを帯びて動き始める。主観から発せられた他者への関心は、関係を生みだし、相互発見的なやりとりを発現しそこに新たな世界が生まれる。そこには本来繋がるはずのない、他者と他者が、物語を介して繋がっていくような気がする。それが本来、介護現場に起こってくる出会いの凄まじさなのだと思う。この章の最後に、「深い霧の中でさまよっていた私はというと・・・。まだ迷いや不安が完全に払拭できたわけではない。それでも、老人ホームでそれぞれの女性の生き方に深いところまで触れる機会を得ることで、誰かの真似ではなく、自分は自分自身の人生をまっすぐに歩いていっていいのかもしれない、と思えるようになってきた」現場にはこうした人生に対する誠実さがあくまでも必要だと感じる。そこから「多くの利用者たちに励まされて、今、私は生きている」という今が照らされる。そこには人生そのものがある。
  六車さんはこの本の随所に、感動に包まれる瞬間のその思いをあふれさせている。言わば自分の人生を賭けて聞こうとする姿勢でいるのだから、話す方も人生を賭けて話してしまうのではないだろうか。こころやたましいの深い部分から引き出されての語りが紡がれる。そこに感動が走らないわけがない。そうした語りは、いつしか時代や歴史や、個人の経歴の記憶や思い出を超えて深い縦軸へと降下していき、人生や生きることや、存在そのものに肉薄し始める。そして認知症の人など、異界の能力に開けた人ほど、現実や社交から解放され深い次元の言葉を紡いでくれるように感じる。そこにはある種の世界の創造さえあるのではないかといつも思う。
   里では、「場ができる」と言っているのだが、「場」があるかないかで起こってくることが違うし、「場の深さ」によっても起こってくることの内容が違ってくる。この本の至る所に記述される感動の言葉は、六車さんの「驚き」が行き渡ってできていく感応の世界なのだと思う。昔話を語ってもらうだけでも「私はメモをとりながら幸せな気持ちでいっぱいになった」と言い、「子どもの頃の記憶に触れる楽しい時間へと展開していったのだった」と場ができ上がっていく。「利用者たちの子どものころや青年期についての記憶に思わず触れる瞬間は、私に驚きと興奮と、そしてひとときの幸せを与えてくれている」と、彼女の存在によって介護現場は変容し、利用者に囲まれている毎日が「刺激的であり、幸せの日々なのである」という言葉には、新たな「場の創造」がそこにあると感じる。その「場」は利用者にとっても、この世での新たな居場所となり、同時に介護職員個人にとっても深い安らぎの居場所として立ち上がってくるのだと思う。
  民俗学ではフィールドワークが重視されるという。そこには調べる対象の中に入っていくという行為があると思う。それを「参与観察」と言うのだそうだが、参与と観察という対称的なことを同時に両方やるという荒技が必要になる。里で暮らしを重視して きたのは、この参与と観察を農業などは適切に統合して昇華していると思うからだ。暮らしは参与と観察の統合によって成り立っている。ただしそれは専門的に行われる研究とは違うので、記述が乏しいともいえる。参与観察には「分厚い記述」が重要なのだそうだ。つまり参与と観察を繋ぐものは「分厚い記述」なのかもしれない。里では、当初から事例主義でやってきたが、それはつまり「分厚い記述」だった。まとめた当初の荒原稿は読みあげるだけで4時間に及んだりする。それを2時間程度にまとめて発表し、さらに検討が2時間ではまったく足りないようなことを重視してやってきたのは、そこにこそ利用者本人と関係性の深い理解への道筋があると感じるからにほかならない。「とことんつきあい、とことん記録する」という章が置かれているように、そこが基本だということを裏付けてもらったことは、我々の12年の取り組みを裏付けてもらったようで、まさに我が意を得たりだった。
   −「回想法ではない」と言わなければならない訳−、という章がわざわざもうけられているがこれもいい。よく音楽療法や、園芸療法をやっていますなどという施設があるが、どれも「何もないから仕方なく取り入れたんでしょ」と言いたくなる事が多い。だいたいメソッドが必要なんだろうかと思うし、どこか怪しい感じがしてしまう。そんな違和感がこの章を読むとすっきりと晴れる感じがする。つまりメソッドは何か恣意的な目的を持っているし、施行した後の評価を要求するのだ。問題があるからそれを回避か排除しようという文脈で、操作主義的な因果論に絡みとられると、たちまち、生の人間や人生がかき消されてしまう。目の前にいる人は対象化され、私の関与は遠く希薄になる。主観が切り捨てられ、関係が消える。しかもメソッドの適応は非対称性を際だたせる事になる。違和感はそこからやってきていたのだ。
 里では関係性を大事にしてきた。そこにはダイナミックな世界が展開し、多様な世界が顕現する。手を引き、支え、介助している姿も、どちらがどちらを支えているのかは曖昧になり、さらに深い次元になれば関係は簡単に逆転する。手を引いてもらって遠い過去や見知らぬ町や村に旅をさせてもらうこともあるし、人生の霧の中で立ちすくむしかない不安の気持ちを傍らにいることで支えてくれていたりする経験は現場ではしばしば起こりうる。さらに利用者が亡くなってからも、介護者を支え続ける。死者は生者により増して逞しく揺らぐことも、変わることもなく、何処でもいつでも支えてくれる。そうした支える死者を得た若者のいかに逞しいことか。彼らは困難や窮地に追い込まれたとしても、死者達の支えによって乗り越えていくに違いない。そうした関係性を現場は育んでいくところだと私は考えてきた。
 我々は近代科学を超えた新たな物語を必要とする時代を生きている。ところが現実にはその糸口が何処にも見つからない葛藤もある。六車さんの実践と著作は、その端緒が介護現場にあることの可能性の新たな地平を切り開いた。まだ発見されていない人間の可能性が、この拓かれようとしている道の先にこそ発見されると信じる。
 
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