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通路【2012.07】
理事長 宮澤 健

  明治大学の弘中先生のご好意で、授業の一部で銀河の里の活動を紹介する機会をいただいた。先生によると学生の反応は悪くはなかったということだったが、私は伝えたり、繋がったりすることの難しさを感じてしまった。都会では人と人が繋がりを持たずに生きていて、それがまた良いところでもあるのだが、ここまで遠いものかという感じに少し戸惑い、驚いた。授業では事例の講読を主に進められているということで、その日はたまたま、乖離と、自閉、アスペルガーのケース論文だった。それだけで通じると思ってしまう私がまちがっているのかもしれない。学生さんからすれば、学びへの関心というよりも、こなすべき一コマの時間でしかないのだろうか。
 ちょうど7月7日の七夕の日で、『銀河鉄道の夜』の作者、宮沢賢治の花巻から、「銀河の里」が、あまのがわ通信を持ってやってきたのだから、何か織り姫、彦星に関連する話でもあるのかと関心を持ってもらいたかったが、100人教室の授業では、都会の切れた人間関係が持ち込まれて、希薄な関係で生きていくしかないのだろうか。
 現代人は神や超越との関係を失って久しい。何ものとも繋がらず、個々が単独で生きていかねばならない。全て個が責任をとらせられる時代の個への重圧は並大抵のものではない。心の深い闇まで自分の責任なのだ。それを抱えきれる個人があるだろうか。耐えきれない重圧に、乖離を使うか、表層だけに留まって薄いペラペラの人生を生きるしかないのかもしれない。下手に自らの闇に挑んだとすれば、特別な力量のあるもの以外は、病理の渦に巻き込まれてしまう。深みに挑むためには、せめて、支えとなる他者の存在や、信じうる超越を存在させる必要がある。ヒルマンが“たましい”を、「あるとかないとかの次元で論じるのではない、たましいというパースペクティブが必要なのだ」と言ったのは、今を生きる個人の支えという観点からも言えることだと思う。
  例のごとく、学生さんの何人かは、携帯をひらき、なかにはユーチューブを見いている人もいた。彼らは教室のこの場ではつながれないけど、どこかとは繋がっているのだろうか。七夕の織り姫と彦星はあまりに仲が良いので仕事が手につかなくなって、あまのがわの対岸に分けられ1年に一度、七夕の日にしか会えなくなったという物語だ。子どもの頃、愛し合っているのに1年にひと晩だけしか会えないのはとてもかわいそうに感じた。雨が降ってその年は会えないとしたら気の毒だと、七夕の天気を気にしたものだった。そのうち、雨や曇りの方がみんなが見ていないから濃密に仲良くできるんじゃないかと考えるようになったのは、大人になったということだったろうか。
 携帯でどこかと常時繋がっている今の学生さんと、1年に一度しか会えない七夕の二人と比べてどうなんだろう。七夕の二人は普段、会えないからこそ相手のことを思い続けることで、二人の間には通路が開かれているように感じる。1年に一度会えるのは、通路を維持する儀式として重要なポイントだ。常時つながれる携帯ははたして通路として機能するだろうか。それは今どきのつながり方なのだろうが、むしろ切れていることの補償として必死に強迫的に繋がろうとするとても辛い通路に感じる。
 先日、あじさいが盛りの鎌倉を歩いた。暑い日で道中にあったお店に入ってくずきりを食べた。庭があって風情のあるお店で暑さをしのいだ。ところがそこに眼鏡を忘れた。岩手に帰ってから電話すると、女性店主が丁寧に応対してくださった。80歳になったというその女性店主は震災のお見舞いと、何もできないことへの謝辞とを語られ、日本人として頑張っていきましょうというような語りをされた。それが自然でこちらも襟を正したくなる。店主と客という不特定多数の関係ではあるのだが縁を大切に感じる日本人の感性がしっかり生きていた。送られてきた荷物には便せん2枚に丁寧な言葉が綴られて小さな商品も添えられていた。
  現代人といっても世代によって、地域によって様々あるのだろう。柳田国男が『山の生活』のなかで紹介している話がある。
   実に落ち着いた表情をしている老人を見かけるのが気になり、あるとき、どうしてあなたはそれほどまでに平穏なのかと聞いてみたという。すると老人はこともなげに「ああ、私は行く先が決まっているのです」と応えたという。つまり、老人はもうすぐあの世に逝く歳だが、亡くなればご先祖様になる、そして一族から敬われることが決まっていると言うわけだ。柳田は深く納得したというのだが、このエピソードを通じて「近代人はどうだ」と問いを投げかけたのだと思う。ご先祖様や世間様など、これまで繋がっていた多くの通路を失ってしまった我々は、今後、何とどう繋がる通路を持つのかということは、時代の課題として重要な問いかけだと思う。
  日本の文化は論理的な解決を求めない傾向を持つ代わりに、いろんな通路を作って世界のバランスをとっていたように思う。家屋も閉じたシェルターとして構成されることはなく、中間領域の縁側や中庭を通して外である自然とつながるようになっている。商家であっても表がお店で仕事の場なら、そこは世間と通じる通路と捉えてもいいだろう。商家の床の間には水墨画が掛けられてそれは自然への通路として開かれ、仏間にはあの世への通路としての仏壇があった。いろんな世界とつながることで豊かな人生を生きる知恵を持っていたと思う。
  銀河の里は、障がいや老いを通じて、異界やあの世への通路を開き、現代の新しい通路を何とか見いだそうと模索し取り組んでいる。大いなるものや異界との通路を持って現実が支えられていないと、こころは辛くなるし追い詰められ、たましいはやせ細ってくる。村上春樹のパラレルワールドもそうした世界のバランスを問いかけるものだと思う。村上の作品が世界中の若者に読まれているのは、そうした希求が若者の心の奥底ではかなりあるということではないだろうか。
 現代においては、個々があらゆる通路を失い、何とも通じていない状況が続く一方で、自己責任や自己決定の圧力が個人に対して限りなく高まる。結局、個々人は何ものとも繋がらないばかりか、誰とも生きていないところにまで追いやれてしまう。そうなると、怒りや暴力が噴出しやすく、収まりもつかないまま暴発し荒れ狂うことになる。そんな追い詰められた心を描いた映画『KOTOKO』が5月に公開された。シングルで赤ん坊を育てる若い琴子は、他者が受け入れられず、他からのアプローチに敏感で“侵入”と受け止めてしまう。田舎や兄妹とはかろうじて繋がれるものの、世界からは分離された世界に生きている。乖離された琴子のか弱い自我は、リストカットと暴力でやっと自分をこの世の現実につなぎ生き延びている。そこには他者が成り立たず、同時に自分が崩壊していく。そんな彼女をかろうじて支えるのは歌だった。歌を歌っているとき彼女は自分を取り戻せそうになる。そんな彼女の前にタナカという男性が現れる。タナカは親身になって彼女と生きようとするのだが、琴子の暴力に引き裂かれて消えてしまう。
  タナカはなぜいなくなってしまったのか。映画を見ているとあそこでいなくなることはないじゃないか、やっと光が見えはじめたところでなんで消えたのかと思う。タナカが踏ん張れば琴子は救われたはずなのにと。でも本当はタナカは琴子に殺されてしまったんだと思う。タナカを殺すことで琴子はやっと光を見た。タナカの殺害は琴子の救いだった。タナカは日常的な暴力に必死で「タイジョウブ」と耐えていたけど、命はもたなかった。タナカは逃げたのではなくて、琴子に殺され消されたんだと思う。その段階で琴子は癒され、いくらか持ち直すが、それは彼女自身の心の殺害でもあった。琴子はさらに深い病理の闇に沈んでいく。自分や大事な人を傷つけることでしか自分が保てない琴子の闇の深さはどこから来るのか。そうした深い闇から彼女の魂は救出されうるのか。
 今月の施設長の文章にもあるように、六車由実さんの本に出会い、感動のあまりお手紙を書いた。彼女の著作2003年のサントリー文芸賞の『神、人を喰う‐人身御供の民俗学』は、おぞましく、異様な暴力の儀礼を「毒抜き」せず、今も共同体のなかにう ごめく暴力として直視する姿勢で挑んだ労作で、現代民俗学の重要な成果として宝のような本だ。共同体に潜みうごめく深い暴力 性を人々はどのように扱い鎮めたのかというのは、遠い昔の課題ではなく、むしろ今日的であり、今後の地域社会を形成していく上でも、国際的な和平を考える上でも重要なテーマではなかろうか。河合隼雄は、日本人の急激な西欧的変化に言及しつつ、モノがありふれる時代になったからには、倫理や、心の問題、宗教などを国民全体で考えるようでないと、21世紀は、なにか面白くない、ギスギスした時代になるんじゃないかと語っている。これから日本人は、個々が自らの内にあるかなりの暴力と向きあう必要に迫られるのだろう。「竹取物語」や「夕鶴」のように「消え去る女性」では物語が完結できない時代になっていて、村上春樹の「ねじ巻き鳥クロニクル」のように、消えた女性を捜さなければならない。河合はその物語を完成するためにはものすごい暴力が要ると言う。凄まじい暴力行為をやり抜く決意のもとに、「消え去った女性」とやっとめぐり会うということがあるのではないか、それは大変困難で危険なことだ、と述べている。それはこの時代に科せられた宿命でもあるように思う。
 人間は人間を喰う存在であることはそれぞれが充分に認識しておく必要がある。現代のように宗教が力を失い、個が全ての責任をとって生きる時代には特に重要なことだ。ところが、個人の力は極めて小さく、まして自身の心の闇などは全く手におえない。暴力は闇の住民であってそれを手なずけることなど、個人の力量では及ぶべくもなく、一個人ではなすすべもない次元の話しになってくる。
 相当な困難な道を我々は歩まねばならない。それでも我々は新たな通路を見いだしていく必要がある。鎌倉の老店主の手紙はこう結ばれている「鎌倉へ行って良かったと心のいやしになれば、私共の頑張る励みになります。日本人としていろいろなかたちで 励まし合える幸せを思っております。一日も早く平和で穏やかな日々が来ますようにご祈念申し上げております」人間として大いなるものとの確たる通路を持って繋がっていなければこんな言葉は紡げない。さすが古都鎌倉の女性だと恐れ入るしかない。深く感動させられるばかりか、なにものかに包み抱かれたような気持ちなる。日本人が本来持っていた心の深みがそこに生きている。
  銀河の里では、利用者がそれこそ日々、いろんな通路を見せてくれる。障がい者の活躍も通路を開くという意味ではすごいものがある。銀河の里は利用者や我々自身の持つ傷や弱さのなかに活路を見いだそうとしてきた。それは、新たな暴力を行使するまでもなく、すでに運命や時間の暴力と戦って生きている姿があるように思う。そこに新たな通路が開かれる可能性を感じる。それを信じていけるところまで行ってみたいと思う。
   【参考文献等】 映画『KOTOKO』
『これからの日本』河合隼雄
『山の生活』柳田国男
『癒しの日本文化誌』藤原成一
『神、人を喰う ‐人身御供の民俗学』六車由実
お店『くずきりみのわ』鎌倉市佐助
 
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