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六車由実氏と出会う【2012.07】
施設長 宮澤 京子

  2年ほど前になるが、銀河の里10周年を迎えるにあたり、これまでの取り組みと、その意味をまとめたいと、高齢者ケアについての書籍にあたった。ところが20年も前の内容の繰り返しのような本や、それにいくらか書き加えたようなものばかりでがっかりしたのだった。そんななかでも、医学書院から出ている‘シリーズ ケアをひらく’は興味深く、幾冊かスタッフに割り振って読んでもらい、「銀河の里セミナー」で、各スタッフに感想や意見をまとめて語ってもらったりした。
  一般に介護行為に特化して「科学性」や「専門性」が発揮されると、介護する側される側の役割関係の明確化であったり、問題や課題の解決が因果論で紹介されていたりするだけで、客観的かつ分析的であるものの、現場の生が平板化されてしまって辟易させられることがあまりに多かった。科学性や専門性だけの視点では、現場で起こってくる、日常の出来事や、関係性から引き起こされる出来事は、取り上げられることもなく、ルーティンワークの影に垂れ流しされ、記録もされない。なんともったいないことだろうと、歯?みすることがしばしばだ。
  こうした現状では、暮らしの中で生きている「ことがら」の主体である「個人」や多様性としての「個性」が消される危険にさらされる。そんな違和感や苛立ちに対し、業界の閉塞性に突破口を開く期待を持たせてくれたのがこの「ケアをひらくシリーズ」だった。最先端医療をはじめ、心理・哲学・宗教・社会・文化人類学等に精通した専門家が、科学性や客観性に基づく合理的理論構築の過程で削り落とされた、人間にとって大切なものに焦点を当て拾い上げたところに新鮮さを感じた。
 今年度、持ち回りで県南地域のグループホームの理事になった。県の協会は全国組織の下部組織で、その会合は情報共有に終始し、中央からの意図で物事は決まり、現場の息吹を吸い上げる勢いはなかった。役まわりとして堪え忍ぶつもりでいたが、来年度、全国グループホーム協会の全国大会が岩手で開催の予定になっているという。全国大会はイベント化しており、現場の研究や質を向上させるための実質的なアプローチはほとんどなく、大会は交流会になっているのが実状だ。そうしたことに時間とエネルギーを浪費させられてはたまったものではないと脱会も考えたが、実力者である内出さんに相談をした。震災以後、世界が日本人の生き方を見守っているさなか、生きること、死ぬことに一番間近に関わっている認知症介護の現場から発信する責任が、東北のグループホーム協会にはあるんじゃないだろうか。岩手は宮沢賢治や遠野物語のゆかりの地で、あの世や異界との通路を開こうとした賢治や、遠野物語という民俗学の発想を世界に向かって発信すべき時ではないのか。今、無為に終われば永劫に悔やむことになりはしないか。岩手で大会を開催する以上、そうした意義を持たせなければここでやる意味がない。
 内出さんは二つ返事で、一緒にやってみようと言ってくれたのだが、そうした方向に展開する確証はまだない。しかしどうせやるなら岩手の風土だからこそ培われた「遠野物語の民俗学的視点や宗教、哲学などの深い思想をベースにした大会」を目指したい。3.11の復興への道のりは、近代から戦後を経て現代に至る物質的な豊かさに奔走した日本人の生き方を問うことでもあり、「そこに救いや希望はあるのか」と全世界の人が注目をしている。科学やシステムの奢りから目覚め、人の生き死を真剣に考え深めていくことが求められる今、暮らしの現場である、認知症高齢者グループホームからそうしたテーマを発信することの意味は大きい。
 そんな動きもあって、改めて介護ケア論の出版物をあたっていると、六車由実氏の『驚きの介護民俗学』(2012年3月出版)に出会った。彼女は山形の東北芸術工科大学の准教授だった人 で、民俗学の研究者だ。その彼女が今は大学を辞めて、静岡の特養で介護員として働いているという。それだけでも驚くが、この本は民俗学の視点を持つ彼女が、高齢者介護の現場に身を置いて生まれたのだからすごい。
 理事長が岩手で大会を開く意義として「我々の現場で起こっていることは現代の遠野物語だ」「そうした視点を、グループホームの現場が持って、暮らしの専門家である福祉から発信しなければ福祉の未来はない」「宗教学者で賢治にも詳しい花巻出身の山折哲雄先生、遠野物語研究の赤坂憲男先生、臨床哲学の鷲田清一先生などを招いてシンポジュームはできないか」などと勝手な構想をぶちまけていたその翌日に六車氏のこの著作に出会った。
 「民俗学」とはいうものの、介護現場で利用者と向きあう六車氏の姿勢やまなざしに「学」は感じられない。『驚きの介護民俗学』のいのちは「驚き」であり、しかも驚き続けることだという。一読して、そのまなざしは銀河の里のまなざしと全く違わないと感じた。ついにこういう時代が来たかと震えるほどだった。
 一般に介護施設においては、3大介助として食事・排泄・睡眠それに入浴・移動・着脱が加わり、これが作業としてルーティンワーク化されている。大半の介護現場では「慣れ」て「扱う」ことが要請され「驚き」は許されない。「驚く」ことは、介護技術の問題ではなく、「感性」やセンスであって、クリエイティブの問題だが、そんなものは大半の介護現場には一切求められない。それどころか、むしろ徹底的に排除される構造になっていると言っていいだろう。  その介護現場に、民俗学の「驚き」の視点が入ったことは革命的な事件だ。しかも民俗学の研究として入るのではなく、六車さんが介護員として現場に入ったことが大きい。語る者と聴く者との関係性のなかで紡がれる物語が重要だ。この著作の中でも述べられているが、たとえば「回想法」というメソッドの押しつけや当てはめでは、キーワードの「驚き」が消失し、生きた言葉は出てこない。関係性による相互の変容がないなら、「自分史」の編纂者に過ぎない。また研究のために介護現場に入るなら、その恣意性や対象化によって、利用者に傷を負わせることにもなりかねない。
  ただ現場は忙しい!日常的に人手が足りない。「聞き書きするには、もっと体制を厚くしてくれ!」という声が上がるだろう。また「驚かないように気持ちをセーブしなければ業務が回らない」ので驚かない人のほうが仕事ができると評価される。さらに「驚く」ということは結構難しい。何でも驚いていれば良いわけでもない。単なる感激屋でも困る。言語による表現や感情表出の少ない利用者や、認知症で言語的なやりとりが難しくなると、人間に対する深い関心や知的好奇心がなくては迫れない。つい「素早く、安全・安楽に仕上げる」といった作業に流されてしまう。そこで里では「介護」に特化しないで‘暮らし’や‘関係性’を前提にすることで、利用者に細やかで深い関心を持つことに賭けてきた。 
 「民俗学はね、あれは科学なんかじゃないですぞ」と小林秀雄は言っている。科学的な分析では成り立たない学問だということだろう。私は民俗学を暮らしと生の物語だと受け止める。現場の物語が編みあげられる期待を込めて、六車さんの活躍が楽しみだ。そのまなざしは、目に見えない点と点、線と線をつなぎ、人間の暮らしと生を立体的に顕現するのではないか。それはそのまま人間の生きた証であり、あの世とこの世をつなぐ循環をもふくめた人生そのものを描く。他者としての聞き手も巻き込んで、人生を生み出し、お互いの息遣いが感じ取れる濃密な時間の流れや空間が現場にできることは重要なことだ。
  六車さんはこの『驚きの介護民俗学』の前に大著を著している。2003年3月初版の『神、人を喰う』はものすごい本だ。サブタイトルが「人身御供の民俗学」。日本における人身御供という残酷でおぞましい祭祀が持つ「毒」そのものを直視し、毒抜きせずに、つまり自分自身のもつ残虐性として向きあい、鬼気で迫った六車さんの姿勢に敬服すると同時に「戦う同志」を感じた。私が思うには、人間は自身のおぞましい暴力性に恐れをなし、その残忍性を神にゆだねざるを得なかったのではないだろうか。現実において人を喰うのは常に人なのだが、神にその役割を担わせて儀礼化することで、人は自らの残虐から救われようと願ったのではなかろうか。『驚きの介護民俗学』は、介護現場において革命的なアプローチなのだが、『神、人を喰う』に比べれば毒がない感じがする。六車さん自身、福祉施設にやられているのかもしれない。現実の制度や体制はさすがの六車さんをしてもきついにちがいない。毒だらけの現場の物語に期待したい。私も次号の通信で、戦争の持つ「暴力」を、20代で戦争体験をした利用者2人の手記をもとに、自らの暴力性とも向きあいながら真っ向勝負してみたいと『神、人を喰う』に奮い立たされている。
 
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