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事例を経て、今の私、これからの私【2012.06】
特別養護老人ホーム 山岡 睦

  3月の末に銀河の里の事例検討会で発表した。テーマは「傷」と「痛み」。3年前、私とミサさん(仮名)が出会い、そして始まった旅。今も続いているその旅の中でも、最も大きく目まぐるしかった最初の一年を振り返った。
  入居した当初から一貫して「足が痛いです」と言い続け、私に挑んできたミサさん。ミサさんにとっての“痛み”とは何だろう?どんな意味があるのだろう?その思いでずっとミサさんと向き合ってきた。そんな日々を振り返っていると、ミサさんの変わっていくプロセスに伴って、自分も変わっていく私のプロセスにもなっていた。不思議なことに、その時の出来事や私に向けられた言葉の一つ一つが、私個人のその時の現状とリンクしていて、私はミサさんに、ミサさんの言葉に考えさせられ、感じ入り、支えられてきた。事例をまとめ、検討することは自分自身を見つめることでもあるのだなと深く感じた。
  「どう生きたらいいでしょう?」「どうやったら幸せになれるんですか?」と、ミサさんは私に問い詰めてきた。生きるって何?幸せって何?それは長い間私が、自分自身へ、また親や社会、世間に対して問い続けてきたことでもある。「生きる」ことに意味を見出すことは決して簡単なことではない。
90年以上生きてきたミサさんが「自分の生き方がわかりません」と私に問う。簡単に答えられる問いではない。人は生きている限り、ずっと自分の生き方を探し続けるのかもしれない。
   ミサさんと出逢わなかったら、“痛み”について考えることはなかったかもしれない。でも、実は“痛み”や“傷”は生きる上でとても重要なものであるということに、ミサさんのおかげで気付くことが出来た。 人は皆、多かれ少なかれ傷を抱えているのではないかと思う。その傷と向き合うよりも、むしろ見ないふりをして生きている人が多いのかもしれない。
  私は今までに自分を思うように出せずに苦しんできた。心を開いたり、自分を出すと傷つくから抑えてしまう。自分を出しても守られる場所がなかったり、受け止めてもらえないような不安と怖さがずっと心のどこかにあった。ずっと、ありのままの自分はどこにも生きていなかったように思う。
  人と関わったり交わったりするためには、きれい事だけじゃなくて少なからず傷つくこともあるのが当然だ。傷つかないように生きることは、人と人の本当の意味での繋がることを諦めてしまうことにもなる。里へ来て6年目。ここには認知症という無限大の力を借りて、自分を最大限に表現し、挑んでくる人たちに囲まれて過ごしてきた。その中で、本当の意味で相手と向き合い、自分とも向き合うことが出来るのだということを少しづつ体験し、身にしみてそれを感じる出会いが何度もあった。そう思えるようになったことで、少しずつ自分の心も拓けた気がしている。誰とも交わらないまま、自分というものもわからないまま生きるってつまらない。傷つくことを恐れて、自分と向き合わずして人生を終えていいの?そう思っている私が居る。自分自身が抱える傷、相手が抱える傷、それらと向き合うことで自分が見えたり、相手が見えたりする。自分を知り、相手を知る、そのために寄り添う。そうやって関係が深まり、自分自身も深まってっていくところに、味わい深い人生が描けるのでないかと思えるようになってきた。
  “痛み”は自分の痛みではあるが、痛いと表現するとき、かなりの力で人を引きつける力を持つ。痛いと言われて、ほ っておけないのが人間である。特に、近しい人が、痛いと訴えて来たときには、それを聞く方がより痛みをもって受け取ってしまうことはよくあるのではないだろうか。それは、辛いけれど、強烈な繋がりを作ってくれるようにも思う。
  「痛いです」と訴え、語りかけるミサさんに、そんなことを考えさせられ、生きるとはどういうことなのかを考えるきっかけをくれたように思う。
  現代人は、目に見えるものや答えがはっきりしているものとしか生きようとしない。見えないものにはあまり価値を与えず、問いかけないように避けている。でも、本当は人は目に見えないものに支えられているのだと思う。感情やたましいといったものが、ないことのように行動することを要請される時代だが、そうしているうちに苦しくなってしまう。肉体としての器があるだけではく、心があり、たましいを感じるからこそ人間といえるのだと思う。その心やたましいをいかに豊に生きるかということが本当は大切なことに違いない。体の“傷”は目に見えてるが、心の“傷”や”痛み“は目に見えない。見えないからこそイメージをつかって想像していくことが大事だ。
  思いは人を動かし、人を支えるということや、思いの強さはすごいということを、私は銀河の里に来てから、幾度となく経験した。目に見えないものが人を動かし創っているのかもしれないとさえ思う。目に見えないものを信じることは簡単ではない。ある意味、自分自身と闘うことでもある。その闘いを諦めないことで、大事な何かを得ることが出来るのだ。
 心と向き合い、心を鍛えるために、大いに心を動かす必要がある。心を動かすということは、自分の感情に正直になるということでもあるだろう。泣いたり笑ったり怒ったり、自分の内側から湧き出てくるものを受け止め、向き合う。それには必ず“傷”や“痛み”が避けられず、傷に依ってしか語れなかったり、解らなかったりすることも多いように感じる。
 “生きる”とは、そういうことなのではないだろうか。
 私は今、“繋がること”についてこれまでになく考えている。新しく異動した部署でのチーム作り、利用者さんとの新たな出会い・・・家族のこと。
 人は独りでは何者にもなれない。“誰か”に向きあって初めて自分が見える。自分というものを照らし出す他者の存在が必須だ。楽を求めて、傷つくことを避けすぎて、繋がりを絶ったり、出会えるチャンスをなくしたりしまうのはもったいない気がする。
 痛みの次元でのやりとりができる関係を持てるのは、実はすごく貴重で幸運なことなのかもしれない。そういう意味でもストレートに「痛いです」と、たくさんの意味が込もった言葉をぶつけ続けてくれたミサさんの存在はとても大きい。
 今回の事例発表を経て、やっと私の自分の人生が始まったような気もする。ミサさんの問いである“人が幸せに生きる”とはどういうことなのかを私も考えながら、挑戦していきたい。
 
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