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私を開く −キリさんの支え【2012.06】
グループホーム第1 中村 綾乃

 新人の昨年は、先輩スタッフの行動を見よう見まねで、利用者さんと関わっていた一年だったが、今年はいくか自分のスタイルが見えてきたような気がしている。スタイルと言っても、パターンではなく、日々違って新たな出会いがあり、事が起こっていくなかで私自身の構えが違ってきたのだ。以前は正しいやり方があるように考えていたので「あ、こう来たら私はこう返事をしよう」とか「今はきっと、こう感じて居るんだな。それならば、私はこう寄り添おう」とパターンを求めていた。今は、毎日“その日の自分だったからこそ生まれる出来事”を大事にしている。その上で、スタッフとも「今、こういう気持ちで行動した」とか「こういう事を感じた」とか話し合えるようになった。
 座っているかと思うと不意に「行ってくるかな」と言い残して、勢いよく立ち上がり外に出て行くキリさん(仮名)。デイサービスやグループホーム第2にお邪魔することも多く、私がグループホーム第1に戻って欲しいと思えば思うほど、それに反して戻ってくれない。すれ違いを感じて私がモヤモヤしてくるとキリさんは怒りをぶつけてくる。少し前までの私は、他部署に迷惑をかけている気がしてなんとかそこから離れて、グループホームに戻ってもらわなければと、焦ってしまい困り果てていた。 
 ある時、ケアマネージャーの板垣さんに「キリさんは周りの空気読むのが上手いから、キリさんがDSに居れるんなら中村さんもデイに一緒に居ていいんじゃないかな」とアドバイスしてくれた。利用者がやってきて迷惑と思うような里の部署はないから、遠慮せず、いろんな所にキリさんに連れて行ってもらって一緒に過ごしたらいいんだ。他者に心を開けないで、他部署に遠慮な私を、キリさんが連れて行ってくれていると板垣さんは感じたのだと思う。 それからはキリさんを連れ戻さなければとか、困ったことをしないでほしいとか考えずに、キリさんがやるように私も一緒につきあう気持ちに切り替えてみた。キリさんが座ったら座る、歩いたら歩くようにまねをしてみたりもした。渡り廊下で繋がっているデイにお邪魔することが多いが、そうやってキリさんに寄り添って座っていると、今まで見えていなかったことが見えるようになった。デイの利用者さんの動きや、スタッフの関わりや、雰囲気なども感じることができる。すると、今までの私ではあり得なかったことだが、手持ちぶさたにしている利用者さんに「お元気ですか?」と声を掛けてみようとする自分に驚いた。すると「元気よ。最近ね…」と返事が返ってくるではないか。当たり前だが、新鮮な体験だった。さらに不思議なことに、私が他の利用者さんとやりとりをしているときのキリさんは、やりとりが終わるまで立ち歩くことなく、そこにとどまって待っていてくれるのだ。やりとりが一区切りついて私がキリさんの顔を見て様子を伺うと「いいでしょ?」と言って、ピッタリのタイミングで立ち上がり、また別なテーブルに移る。
 移ったそのテーブルでは将棋や囲碁をしている利用者さんが居て、私もそこへお邪魔して一緒に囲碁の対戦の様子を見ていると、囲碁をやっていた男性利用者さんは「やりかた分かるか?」と打つ手を止め私に細かく解説してくれた。自分の殻に籠もって、なかなか人と交わっていけない私のコミュニケートの欠落を感じ取ったキリさんは、何とかしようと私のことを導いてくれているのかもしれない。いずれにせよ、キリさんは私とデイの利用者さんとを結びつける媒介となっている。
 キリさんとそんなやりとりを体験しているおり、5月8日の新人研修に私も参加した。取り上げられた研修教材は『闘う三味線 人間国宝に挑む〜文楽一期一会の舞台〜』というNHKのドキュメンタリーで、現在の文楽の重鎮、浄瑠璃の竹本住大夫に三味線の鶴澤清治がある演目での競演が上演されるまでの稽古の様子を追ったものだ。人間国宝住太夫に、文楽三味線の第一人者鶴澤清治(後2007年7月人間国宝)が挑むという内容で、2007年 5月7日に公演された『文楽出棹 鶴澤清治』の最初の稽古から公演までの二人の対決が細かく丁寧に描かれている。
 共演するのに対決はないだろうと一般の素人には思えるのだが、そこに描かれていたのは明らかに対決で、「三味線と太夫は夫婦みたいなもんでんねや、合わせたらだめでんねん」と当たり前のように語る住太夫の言葉にハッとする。一般の常識とはかけ離れた、人間国宝の世界だけにあるようなプロの話しだ。「上手にやろう思うたら終わりでんねん」とも語る。弟子の人も「上手に弾くのなら誰でもできます」と言う。奥深い芸の世界がそこにある。合わせには行かない。あくまで三味線は三味線、太夫は太夫で自分の芸風を高い次元で発揮しながら、それぞれを活かしながら、調和と言うのか、浄瑠璃が完成する。ドキュメンタリーの映像だけでも、二人のスタイルが違っているのは素人の私でも解った。その二人が、お互い全く妥協などせず、信念と信念をぶつけてひとつの演目を舞台に向けて完成させ行く。お互いの能力を認め合っているからこそできるぶつかり合いが繰り広げられて、とにかく凄かった。
 私にはよくは解らないが、本番当日の舞台は見事なものだったに違いない。観客はその場に居合わせる幸運に酔いしれたことだろう。「またやりますか」との公演後のインタビューに住太夫は「いやもう二度とできません」と言っていた。年齢のこともあるのだろうが、一期一会の命がけの勝負だったのだろうと思う。鶴沢清治は「100パーセントはありません、80点かな。傷はありますが今後に活かしていきます」と晴々と語った。「あの子若いでしゃっろ60でっせ、これからでんがな」4歳から三味線を弾いてきたという鶴沢清治60歳がこれからだという世界。当時83歳の住太夫は全力で後継に胸をかしたのだ。
 「このように仕事に対するプライドを持ちながら、私にしかできない仕事をしたい」と感じさせられた。ただあまりにかけ離れた世界で、感想を聞かれても全く言葉が見つからず「凄い」としか言えない。
  我々の現場もただ“介護行為”をするだけならば誰にだってできる。私がその場に居て私しかできないことではない。利用者さんと一緒に感動する、一緒に泣くといった、生活することで生じてくる“心で繋がる”ことや、私が利用者さんとが関わることで生まれる出来事をどう大切にするかということが問われるように思う。
 私がこの道を選択したのは、人との繋がりが薄い今の時代に疑問を感じていたからだ。私は大学で法学を学んだ。法文があることによって守られる人間の権利があるが、法文は個々の事情・感情・性格等を考慮してくれることは殆ど無く、誰に対しても平等に同じく適用される。学問として理論を追求すればするほど、個々の特性は排除され、実態のない“偶像”が現れるように私は感じた。法律は必要で、それによって社会も成り立ち、秩序も保たれる。しかし、現代はあまりに偶像が大きくなりすぎてそれに縛られ、個人の心が排除され、息苦しさに耐え難く感じることが多い。特に集団の中にそうした空気が蔓延していて、皆と同じにしなければならない強迫的な観念に支配される。常に異質なものを排除しようとする圧力は相当高い。そんな現代社会に私は辟易していた。とりあえず他に合わせることで落ち着くものの、次第に不安が膨らんでくる。
 銀河の里では私の個性が活きるように見守ってくれる。一般社会とは逆に、異質が特徴として歓迎される。私らしさが活きる事で、私にしかできない仕事が見えてくるという考えがある。
 キリさんは、私が人と繋がるきっかけを与え、私の世界を開いてくれているのだと思う。私を連れていろんな世界を案内し旅を続けてくれているに違いない。あとは私の感性の発動次第だ。“介護行為”は私の仕事ほんの一部でしかないと思う。それを通じて私が誰とどう出会い・勝負するのか。コミュニケートの戦いだと感じてきた。真剣勝負でしか生まれようがない、強烈な出会いということが世の中にはあるのだと、二人の人間国宝から教えてもらったような気がする。
 
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