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探求の構え -暴力への対峙と日本的美について-【2012.06】
理事長 宮澤 健

  先月、久々に運営推進会議を開催した。施設が閉鎖的にならないように、利用者さんや利用者さんの家族、行政、地域住人、福祉関係者などが参加して各月で開催するよう厚生労働省が推奨する会議だ。いかにもとってつけたようなお役所的ネーミングのこの会をなんとか楽しく有意義なものにできないか頑張っていたのだが、昨年度は開催できなかった。時間の無駄な会合は許せないたちなので、集まった方々が、来てよかったと思ってもらえるようなものにしたい。運営推進と言うのだから、本来は施設の方向性を考え実践していくための会合でありたい。人間にとって介護とはなにか、介護によって人生は何を得るのかというような、当事者の思索や提言を、運営に活かし、施設の活気に直結していくと理想的なのだが・・・。
  会議でこの通信が話題になった。最近は文章の量が増え、ますます読みづらい内容になっている。内容が難しくて読めないという声もあった。広報誌、社内誌などの専門家は、写真が多くて大きく、文字の少ない形が良いと言う。そうした形式とは真逆なので、読まれない最悪のものと言うことになる。その点についてはかなり迷った時期があり、写真を主体に文章の少ない形を模索したこともあるが、考えた結果、そちらには踏み切らなかった。
  20年以上前、当時私がいた施設は荒れたひどい所だった。時を前後して施設長も別の施設で同じような体験をしている。彼女は「地獄を見た」と言うが、私も職員の利用者に対する暴力がまかり通る現場で傷つきながら、苦闘した経験がある。そうした施設では暴力が恒常的に繰り返され、日々先鋭化していく。福祉施設内での暴力は、実に巧みに実行され隠蔽される。表からは善意の看板しか見えないが、善良の皮の中に隠れて、その下劣な体質が巧妙に隠蔽されているという、恐るべき悪魔の構造がある。
  暴力は行為している当人には全く意識されず、わずかに意識されたとしても、外にも内にも遮蔽が機能するので、自らも善意の皮の中でその気になって生きていく事ができる。これほど怖いことはない。人間が施設の玄関に入ったとたんに、悪魔的人間になり、出ていくときは人間の顔をして社会や家庭に戻っていけるのだ。彼らは人間でなくなっていることに気がついていないし、周囲には極めて善意の人に映っている。そうした構造から自分を守り、人間としての自分を失いたくないと思うが、悪魔的でない施設のほうが実際には少ないということも見えてきた。自分が悪魔にならないためにも、また施設を悪魔的状態に陥れないためにはなにが必要なのか。まず大事なのは自分自身を閉じないで、他者や社会に開いて繋がりを広げ深め続けることだ。そして知的に深化しつつ、自分自身を見つめ、人間の探求を継続していくことが必要だと考えた。
  人間にとって、暴力は隣り合わせと言うより、一体と言える。
 そのことを自覚し、見つめていなければ、知らないうちにそいつにやられてしまう。実際、志を持って福祉大学から来た新人が、数ヶ月で簡単に利用者を殴れるようになる。悪の自覚は当然無い。人間と直接出会う現場では、常に人間を発見して行こうという探求心がないと、いつのまにかよどんでしまって暴力がはびこる危険性がある。暴力は相当な相手なので自分1人では太刀打ちできない。今月号で施設長が論じているように『海辺のカフカ』のような異次元と、そこに生きるナカタさんのような他者を必要とする戦いなのだと思う。
  映画『エス』はアメリカで実際に行われた心理実験、(市民を無作為に抽出し、看守と囚人にクジ引きで別れて一週間過ごしてもらうというもの)を題材に作られたドイツ映画だ。看守役の心 の中にうごめきはじめた暴力がやがて暴走し、実験者も含めて暴力の渦に巻き込まれ悲惨な結果になる。この映画はホラー映画の部門に分類されたりもするのだが、人は誰もが心の奥に暴力を持っており、圧倒的な力関係の環境に置かれれば、暴力が歯止めを失って破壊的に暴発するということが証明される結果になり、実験は中断されて終わる。10年前、イラクにアメリカ軍が進駐したとき、女性将校による囚人虐待が報じられたとき、「すでに証明済みなのになぜそうした教育を行っていなかったのか」とあるジャーナリストが批判していたが、その証明済みというのはこの実験のことを指している。
  特に、他者の目の届きにくいところでは、暴力が引き出されやすく、一旦引き出されると暴発を食い止めるのは難しくなる。学校や集団で単なるいじりが、境界を失い、イジメとなり、暴力にいたる例はいくらでもある。特に福祉現場はこうしたリスクが極めて高い環境にあり、特に、ユニット化や個室化で、関係が近くなれば、暴力も引き出されやすくなるので、細心の注意が必要だということが認識されていなければならない。
   そうした誰もが持っている悪と向き合い、その暴発を避けるには、まず自分自身がそういうものだということを知っておく必要があるが、なかなか自分を客観的に捉えるのは困難で苦しいことでもある。しかも暴力と善意は厳密なところでは線を引きにくく、見分けがつかない場合が多い。たとえばグループホームで楽しい時間を過ごせたとしても、それを外部に伝えたとき、それが“伝え”ではなく“晒す(さらす)”ことになってしまう場合もある。また現場で丁寧な言葉遣いをすれば良いというものでもなく、関係と距離によっては、それさえ暴力になることもある。それならば、最初からやっかいな関係を取っ払って、契約的、機械的になると、ホテルやデパートになり、暮らしとしてはどうなんだろうということになる。このように福祉現場には様々な葛藤が解決されずに残っていると思う。
  銀河の里では、グループホームで認知症の人と向きあっていくなかで、人間が深い次元で生きうる可能性を発見してきたと思う。そこでは現実と異界のパラレルワールドを構成したり、利用者とスタッフの時空を超えた通路が開かれたりする体験を重ねてきた。それは単なる介護の作業を超えて、人間存在のリアリティを実感できる貴重な、深い経験となる。そこで、現場でのこうした体験をどう理解するのか、考えるのか、記録し伝えるのかという課題が出てくる。暮らしのなかで起こって来ることや、その体験は、因果論ではないので、単純に「こうしたらこうなりました」という文脈ではない。通信が解りにくいのは、因果論ではないプロセスを伝えようとするからだと思う。説明では伝わらないので物語になったり、小説や演劇などの芸術作品を通じて理解をしていくというような複雑な形になり、なじまない人にはまるで解らないということになってしまう。
  現場を通じての思索や思考は、自らの中でうごめく暴力に対抗する唯一の手段でもあるし、そうした知的冒険は、組織や人間に新鮮さを失わせない効果がある。新鮮な息吹をなくしたところには、暴力も噴出しやすい。ひとつの組織が何年も新しさを保つことは極めて困難で、数年でよどみ、腐ってしまうのが常だ。
  心理学者のギーゲリッヒはある講演で、「臨床は知的冒険であり、正しい正しくないではなく、新しい理論が必要だ」と言っていた。また、塩糀(しおこうじ)を全国的なブームに仕掛けた、大分の糀屋、浅利妙峰さんが、銀河の里に糀と糀料理の作り方を教えに来てくれたときの「菌はある時点で発酵と腐れに別れる、別れたらそれぞれ後戻りはできない」という話しに感動した。人間や組織もその通りだ。「腐れ」の道を歩まないためには、常に新鮮さが必要で、発酵の道は、次々と新たな出会いを重ね熟成していく。私は発酵型を目指したいので、そのためにも、新たな挑 戦としての思索、探求と、新たな出会いを求める。通信の紙面はそうした役割を持つので、組織としての最先端の探求の構えを保ち続けたい。現場の日常の出来事と、それを支える思索、探求はセットで必要だと考えている。
  
  先日、上野の国立博物館にボストン美術館の日本コーナーの美術品が里帰りして展示されたので観に行った。この展示会のポスターにも使われた『雲龍図』は、明治期の廃仏毀釈運動の渦中で、ある寺院のふすまから剥がされ、紙くずにされていたものという。当時、フェノロサなどの外国人の審美眼がなければ、これらは保存されることなく破棄されていたのかも知れない。これらの日本の美術品が日本ではなく外国にあることは少々残念だが、国外に出ることによって世界に認識された面もある。それにしても一時期ではあったにせよ、自国の伝統文化の芸術的価値を見失ったという歴史は悔やまれる。
  多くの仏像、仏画が並び、その他に有名な平治物語絵巻があり人気を博していた。私は中学生のころ尾形光琳の『燕子花(かきつばた)』に惹かれたが、その光琳が心の師匠と仰いだ俵屋宗達に挑んだという、『松島図屏風』も帰省していた。ついでに『燕子花』が青山の根津美術館で公開されているというのでそれも観た。子どもの頃から美術の教科書で親しんでいた国宝の実物に会えたのは嬉しかった。ただ印刷の方が光線がある感じで明るくきれいな印象だった。
  根津美術館にはインドや中国の仏像なども多数展示してあったので、上野のボストンと会わせて、この日は仏画と仏像をたらふく観る事になった。同行していた息子に感想を聞くと「日本の仏像は抑制的だよね」と言う。確かにそうだ、仏像に限らず、日本の美術は内面的に感じる。単なるリアリズムではなくその奥にある何か、精神的な何かを描こうと挑んでいるのが解る。表面ではなく、その奥にある深さを求めた文化を感じる。
  施設長が数年前、オーストラリアに語学研修に出かけたとき、赤道に近いぎらぎらの光のケアンズで、出発時に私が渡した谷崎潤一郎の『陰影礼賛』を読んだ。それだけでも興味深いことなのだが、夜に雷が鳴って停電になり、ホームステイ先の奥さんが蝋燭を持ってきてくれた。その時、読んでいたのがちょうど、「蝋燭の光」の章だったというおまけがついたエピソードがある。西洋人が大陸のジャングルを切り開いて作った土地には、精霊も住んではいなかっただろう。
  根津美術館の庭園で、息子の感想に思考を巡らせる。中国、イ ンドの仏像のその向こうに、ギリシャ、ローマの彫像をみるとどうだ。巨大で力に満ちていて、威圧的だ。日本のものは大仏でさえどこかユーモラスだったりする。ボストンから来た龍も威厳や圧力といったパワーではない。日本の美術はパワーを極力抜いて、弱さや、老いや、その先にある死を包含した存在のリアリティを美として見つめる精神性を求めて行ったのではないか。そこには、日本人の到達した精神性がある。それは今の世界を席巻しているパワーと効率ではなく、分断の理解や説明ではなく、達観の理解があると感じる。
  実際の光琳の絵をみて、印刷とは違った、光線の弱さを感じるのも同じ理由があるに違いない。物事を分けて、切り刻んで操作しようとする近代的な手法にすっかりなじんでいる時代の只中で、日本の仏画や仏像のように、内へ内へと収束していくような取り組みはできないものかと思ってきた。その挑戦は暴力を乗り越え、人間の存在本質との出会いの可能性を開くと信じている。
  詩人の寺田 操は、深い人間の出会いとしての恋愛における、結晶作用(クリスタルゼイション)をこう語る。「他者との関係を生きること、変容を恐れぬことにある。軋轢を恐れることなく移動と漂流が続けられるとき“愛するものの新しい美点”は発見され関係は更新される。移動と漂流とは、日常の囲い込み(停滞)から生を脱出させるという可能性を求める強い意志とロマンによって支えられている。それは日常の生の現場から目をそらさず、逃げないというやさしさと強さを、その生き身にあえて引き受けていることにある。-中略- 移動とは自らの存在本質にたどり着くことにほかならない。」
  「恋愛は生の現場では、さまざまな制度や世間智や矛盾にさらされる。なによりもそれが自己と他者との関係であることによって、自己自身の生が問われ覚醒をうながされる。対なるエロスを真正面から対座させない恋愛は不毛であり、そこでは、自己も他者も変容してはいかない。」
  長い引用になったが、おそらくこれと同じ現象が、現場では、その関係性を通じて起こってくると思う。暴力は個々人に常につきまとい離れることはない。しかしそれだからこそ、怒りも含めて感情を豊かに生き、それを率直に見つめていくことが大切だ。日本美術がパワーを極限まで排除することで、押さえたり、切ったりすることなく内面化に至ろうとした知恵に学びたい。通信はそうした探求を表現する少ない機会を私に与えてくれているので、お付き合いいただければありがたい。
参考文献:『恋愛の解剖学』寺田操 風琳堂、『エス』DVD映画
 
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