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追跡は巡る 『海辺のカフカ』と『銀河の里』に繋がるもの【2012.06】
施設長 宮澤 京子

  この通信でも随時紹介してきたように、昨年DVDで映画『だれも知らない』を観てから、いろいろあった。そしてついにこの映画の主題歌を担当したタテタカコさんを迎えて(6/3)「銀河の里」ライブを開催した。一方、先月5月には、村上春樹の『海辺のカフカ』が蜷川幸雄演出で舞台化され、そのカフカ役に同映画でカンヌ映画祭の最年少主演男優賞を獲得した柳楽優弥が舞台初出演した。映画『だれも知らない』をきっかけにタテ・柳楽を追いかけてきたこの半年、巡り巡って、里と近い感覚があり、注目し続けてきた、村上春樹の『海辺のカフカ』につながった。舞台を見た後、再度小説を読み返しながら、小説のメタファーが、里のワールドと重なり、以前読んだ時とはまた違った感動と畏れを覚えた。小説と同じように、不思議と現実でも繋がるときはいろんなものが繋がってくるものだ。
  『海辺のカフカ』は、2002年に刊行され、以来30を超える各言語に翻訳され、それぞれの翻訳本の装丁から、この作品の何に想像力を刺激されたのかを見比べるてみるという試みもされるほどだ。ちなみに日本の単行本の装丁には、春樹の私物である石と猫の置物が使われている。カフカは、フランツ・カフカ(チェコ出身のドイツ語作家)の借用で、チェコ語でカラスという意味だそうだ。
 この長編小説は、現代が舞台であるが、ギリシャ悲劇のエディプス王の物語や日本の『源氏物語』が重ね合わされたような、幻想的でメタファー的なものがベースに展開されていく。父親から「お前はいつか、その手で父を殺し、いつか母と姉と交わる」という「呪い」をかけられた15歳の少年カフカと、戦時中、幼少期に疎開先で奇妙な事件に巻き込まれ、それ以来すべての記憶と読み書きの能力を失ったナカタ老人のパラレルワールドが、共時的に語られ繋がっていく。
  両世界に低通しているテーマは、破壊的な「暴力」と抗えない「性」である。「戦争の持つ残酷さや非情さ」や「死と背中合わせの生」は、平和ぼけをむさぼる現代の我々には、リアリティを持ちにくい。ところが人々の心のなかには、いつ爆発してもおかしくない荒れ狂う「暴力性」や、内向して自己完結していく「閉塞性」が渦巻いている。村上は「戦争」そのものを描くのではなく、時空を超えた二つのパラレルな世界を展開しつつ、現代人のこころにこそ潜む「暴力性」とそれとの対決を描いていて、小説ならではの構成と展開がある。
  舞台の脚本はフランク・ギャラティで2008年にシカゴで上演されたのを、蜷川幸雄が演出した。かなり長編で複雑な『海辺のカフカ』をどう舞台化するのか、どこを強調して、どこを省くのか、舞台であの不思議なパラレルワールドが描けるものなのか疑心暗鬼でもあった。ところがストーリィは、かなり原作に忠実で、舞台に引き込まれ4時間の上演があっという間に感じるほど面白かった。次々に展開する透明なボックスに入れられた「背景」や「場」を人力で動かすというこの奇抜な?舞台の入れ替え手法は、現実の中にある非現実と、非現実の中にある現実という、少しややこしいパラレルワールドを表現するには有効だったし、キャスティングもとてもよかった。
  
  『海辺のカフカ』の持つメタファーと、銀河の里とのリンク
   ・「世界で一番タフな15歳の少年」→「世界で一番タフな97歳の老少女」 ー 
  カラスと呼ばれる少年(カフカのもう一つの人格?)が、「君はこれから世界で一番タフな15歳の少年になる」と眠ろうとする少年(僕)の耳元で繰り返す。ー
  15歳という年齢は、思春期のまっただ中だ。村上自身が中国版の序文でこう書いている。「心が希望と絶望との間を行き来し、世界が現実性と非現実性との間を行き来し、身体が跳躍と落着との間を行き来する。そこで激しい祝福を受け、同時に激しい呪いを受ける。・・・略・・・カフカは僕自身であり、あなた自身である。」
  子供でも大人でもなく、不安定で弱いからこそ、タフな身体が必要になる。タフでなければ、内側に沸き起こってくる暴力的な誘惑や性的な葛藤を乗り越えていくことができない。そこでパワーが欲しい!と筋トレやボディビルで身体を鍛える。しかし、力でねじ伏せるにはあまりにも相手は巧妙かつ巨大である。現実での「親殺し」や「相姦」を避けなければならない。少年は「旅」で出会う人との触れ合いや支え、「冒険」の魅力と挑戦、神話などメタの世界に助けられながら、危険な時期を乗り越えていく。神話は、時に現実の体験以上に力を持ち、魂の怒りを鎮める役割を持っている。もしこの時期を乗り越え損ねると、犯罪に至ったり、精神の病に陥りやすい危険な時期なので、こうした多くの守りや多義的な支えが重要となる。
  その疾風怒濤の思春期を乗り越えると、次に現れるのは「社会」の中での役割や責任という、「大人」としての現実適応を求められる時期、それが人生の大半で、長く続く。
  しかし、高齢期になると再び社会的「弱者」となる。そこでアンチエイジング!として筋トレやリハビリに励み、弱者から抜けだすためにあがくことになる。ここでもパワーが欲しいのだ。しかし、この時期は、思春期以上に間近に迫る「死」という不可避な現実にも関わらず、極めて非現実な課題がある。
  思春期に立ち向かうタフな少年が小説のカフカであるが、私たちはグループホームの現場で、死思期に立ち向かうタフな97歳の真知子さん(仮名)に出会う。まさに1世紀を生き抜こうとしている彼女が、先月ある日突然、激しい頭痛と嘔吐に襲われ、酸素濃度も下がり、救急車で病院に運ばれた。病院に親族が呼ばれ、危険を宣告される。ところが真知子さんは「まだ死んでいられない!」と叫び息を吹き返し元気になった。97歳の「まだ」に親族も驚いたが、その言葉通り、2週間入院したが、結果所見なしで退院し、グループホームに戻ってきた。入院中はおむつで、ベッド上の生活を余儀なくされていたが、戻ってきて数日で自らおむつを外し、以前のとおりポータブルトイレを使用するようになった。夜間も、習慣になっていた部屋の模様替えの作業を復活させ、小さな身体にどこからそんな力があるのかと思うほど、素早い身のこなしで、椅子や荷物を移動する音を響かせている。おまけに以前は耳が遠いせいもあり、どちらかというと寡黙だったが、なんと退院後は言葉を使ってのやりとりが頻繁になりみんなを驚かせた。
  あまりに元気なので、先日、天気もよく田植えに誘ってみた。
 すると断ることなく「よがんす」と二つ返事で受けてくれた。そしてなんと一番乗りで田んぼに入った。私はその様子に「あぁ今年の田植は、真知子さんのこの姿が見られただけで、十分!」と胸が熱くなる。しかも丁度そこに、お孫さんが「おばあちゃんが紅白の帽子をかぶって運動会に出ている夢を見たので、寄ってみました。」と訪ねてきてくれた。数日前、生死の境をさすらい、病院に親族を集めたおばあちゃんが、田んぼで働いているのは想像もできない光景だったろう。「まだ死んでいられない」というのは、米を作付けする聖なる鍬入れの「儀式」を執り行うためだったかとさえ感じてしまい、手を合わせたくなる。真知子さんの儀式に続いて、新人スタッフが「ワイワイ」と苗を手に、田植えをしたのだった。
  97歳の「死思期」の変容は、15歳の「思春期」の変容に劣らず凄まじくて気迫に満ちていて、それでいて暖かい。まさに世界で一番タフな97歳の老(少)女を垣間見たようなエピソードだった。人間の心やたましいの次元では、どの発達段階においても「死」を背景に、どう生きるのかというテーマが低通していることを感じさせられた。
  『海辺のカフカ』ナカタさん:戦中の不思議な体験と戦後の数奇な運命
  『銀河の里グループホーム』守男さん:戦争の傷とその癒し  
   〜 開閉する通路:「猫」と「石」そして「森」というキーワード
  ナカタさんは、小学校の疎開先で、集団催眠?にかかるという「お椀山事件」に遭遇し、それ以来記憶がなくなり、読み書きも出来ない。その代わり?に猫と話が出来るようになる。その能力を使って行方不明の猫を捜索しているうちに、数奇な運命に遭遇する。「ナカタは・・・であります」という軍隊口調のしゃべり方は戦中がそのまま残っている感じだ。暴力とは無縁のようなピュアな性格のナカタさんが、カフカの父であるジョニー・ウォーカーを殺害するという事件が起こる。返り血を浴びたはずのナカタさんには、一滴の血痕もなく、東京から距離を隔て高松にいた息子カフカのポロシャツに血糊がついていた。父から受けた呪いの一つが、ナカタさんの手によって成就した。(しかし現実には、カフカとナカタさんとの接点はない。)殺害の次のナカタさんの役目は、森の奥深くに‘開く通路’‘塞ぐ通路’の「石」を探し、その「石」をひっくり返す仕事だ。このようなメタとしてのナカタさんの役目(世界秩序のあるべき形や方向に正す?)に、付き合ってくれる青年星野君が現れる、今風でちょっと軽いが、次々に起こる異常な出来事を、とてもナチュラルに受け止める。石を見つけた後、実際に通路をふさぐ仕事を残してナカタさんは息を引き取る。途方に暮れる星野君の前に、黒猫のトロが現れる。なんと星野君は、猫と話が出来る能力をナカタさんから引き継いだようで、トロは星野君に役目を指示する。トロいわく、猫は世界の境いめに立って、共通の言葉をしゃべるという。世界の境いめとは、生と死の世界の間に横たわる中間地点(リンボ)で、ここでの戦いは、「偏見を持たない絶対的な意志(システム)」の象徴としてのジョニーウォーカーと、カフカの影の人格としてのカラスが、「圧倒的な偏見を持って強固に抹殺する」という命令の下での戦いだ。しかしリンボにおける戦いには、「死」は存在しない。
  この中間領域は、銀河の里では特に重要なのだが、舞台では省略されていた。星野君の役目は、ナカタさんの身体を通路として出入りする「邪悪」なものの退治である。星野君には何のためにそれをするのか、全くわかっていない。しかしナカタさんから引き継いだ役目を果たすことに何の疑念を持たず、目的を詳しく詮索もしない。「邪悪」なものは、特定の形は持たないが、一目見ればわかるという。確かにそれが現れた時、一目見て星野君は、それが「圧倒的な偏見を持って強固に抹殺する」‘もの’であると悟った。塞がなければならない「石」は、時を待って入り口の石になり、その石をひっくり返すのは容易なことではない。しかし、邪悪なものをそこから入れてはいけない。トロは、「死んだ気でやれ、そして資格を引き継ぐんだ」と声をかけ、星野君はあらん限りの力をかき集め、命と引き替えの覚悟で石を持ち上げた。それによって入り口が塞がれると、邪悪な白いものは、硬く丸くなって死んでいた。
  こうして星野君は役目を終えるが、ナカタさんと一緒にいることで、自分が変わったことはどんな不思議な出来事よりすごいことで、それはナカタさんの一部を引き継いで生きるってことなんだと自覚する。一方、記憶をなくした空っぽのナカタさんにとって、自分のことを考えてくれる星野君の存在は、心強く、幸せな時間を共有できたに違いない。亡くなったナカタさんに「悪い死に方じゃないよな」と語りかけて立ち去るシーンも印象的だ。
  このナカタさんと青年の関係は、私にはグルーホームの利用者、守男さんとスタッフに重なる。グループホームに入居者している92歳の菊池守男さんは、戦争の傷を今なお心に深く負っている。時折「天皇陛下万歳!守男、お国のために戦ってきます」と敬礼することもあるが、「お国のために、人を・・・」と泣きながら告白することもあった。お国のためという大義名分のもとに戦争が正当化され、男達は戦地に駆り出され、銃後を守る女・子供は食料不足に喘ぎ貧しく暮らしていた時代が映し出される。復員後、守男さんは農家の家長として農業や祭りごとを取り仕切ってきた。しかし高齢になると、母屋の脇に建てた小屋で、薪ストー ブを焚いて、その炎をながめながら瞑想の時を持っていたようである。
  入居3年目になるが、守男さんにはグループホームは「公民館」のイメージがあり、「家に帰るかな」とつぶやいて出て行くこともある。踊りの名手で、地域や里の「祭り」では見事に舞いを納めてくれる。宵宮の神楽やお正月の獅子舞、お盆の迎え火や送り火、どんと焼きといった神事も、守男さんの存在が場に緊張感を与え、「儀式」を守り、滞りなく進めさせてくれているように思える。戦争では多くの殺戮を目にしたのか、負傷した戦友のことを思い出して胸を詰まらせたり、氷のように冷たい表情でどこか遠くを見つめていることもある。生き残った人間として、深い傷を心にかかえながらも、厳かに死者への供養をしているようにも感じる・・・。
   最近、足腰が弱ってきた。リビングのテーブルに伏せていたので、私はソファへ移動しようと「車いすに移りますよ」と声をかけた。にこやかに、「はい」と応えてくれたものの、逆の方向に力が入り、まるで「石」のように重く3人がかりでやっと移動した。
  ちょうどその頃、守男さんが自宅に寄ると井戸を塞ぐという話があった。家から戻ってきた守男さんは、若い男性スタッフを手招きし、「お前に任せるから、いい案配にやってくれ」と語った。守男さんも、ナカタさんのように「世界の秩序のあるべき方向性を指し示す」という、そんな役目を、若者に託しているように感じてしまう。またある朝、守男さんは、鏡を見ながら「ははぁ、まだ埋めてないんだな」と言った。私たちは感覚を研ぎ澄まし、井戸が塞がれる前に「聞き逃していることはないか、見逃していることはないか?」と、日常の暮らしや、自らの生き方に思いを巡らせる。そして願わくは、守男さんの役目を引き継げる資格者でありたい思う。
  ・カフカは?
  世界で一番タフな少年になることを決意し、旅に出たカフカ。
 強くなると言うことは、自分のうちにある影としての恐怖や不安に立ち向かうことであり、カフカにとっては、父親の呪いの傷や、自分を捨てた母を許すことだった。『海辺のカフカ』は思春期に立ち向かう少年を支え守るもう一つの世界を描いているところに特徴がある。カフカとは別の世界で、カフカの代わりに呪いを解き、「邪悪」なものを抹殺するナカタさんという存在が描かれている。そのことによってカフカは、犯罪者になることなく呪いから解放され、激動の思春期を乗り越える。自己がタフさを身につければ大人になれるのではない。何かを乗り越え大人になるには、むしろ自分とは別の世界で、自分に代わって命をかけて戦ってくれる存在が必要だ。自分ひとりでは、相手に比して弱すぎるので惨殺されたり、自らの暴力で世界を破壊してしまう危険がある。しかし逃げては一切が無に帰す。だからこそ、パラレルなもう一つの世界の関係者を動員した戦いが遂行される必要がある。両者の通路を時に開き、時に閉じながら、その行き来を司る者には、村上のよく言う「資格」がもたらされるのかもしれない。
  6月7日、銀河の里のデイホールでタテタカコさんのピアノと 歌を聴きながら、この半年、現場から思索してきた、様々な不思議な繋がりに思いを巡らせていた。  
参考文献:
村上春樹(2002)『海辺
のカフカ』新潮文庫
  舞台「海辺のカフカ」のパンフレットより
 
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