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そう言うわけで仙台でタテタカコにあった【2012.05】
理事長 宮澤 健

 「そう言うわけ」というのは、施設長が映画『誰も知らない』を観て、何ものかを追いかけ、結果タテタカコに至ったという昨年10月号の記事のこと。私も映画を観て、彼女のCDも聴いた。現代の宿業を突きつけた映画のその主題歌は、それだけ聞くと刺激が強かった。私自身の日常が、安らぎを期待できない、荒れ狂った日々なのだから、音楽くらいは心静まるものを聴きたいと思った。そのうち、施設長は、どうやらタテタカコのライブに京都まで行ってきたらしい。そこでも神話的時間がもたらされたようで、その感動が記事になった。そして昨年10月18日タテタカコが仙台にきた。そう言うわけでタテタカコにあった。
 ライブで本人に触れると、私の抱いていたタテタカコのイメージは覆った。事物の表層を剥ぎとって本質を見通す歌詞に、痛々しく重いイメージを抱いていたのだが、全く違った。こんなピュアーな人間が今どきの世の中にどうやって生きていられるんだろう。妖精が生きて歌っている。その存在に深く癒される感じに浸る。気がつかないうちにこちらまでピュアーになっていく感覚。まさに純でうぶなシャーマンではないか。表層を透過してその深奥の本質に触れざるを得ない感性。それは痛々しい体験でもあるはずだが、彼女はその本質を、音楽を通じて恐れることなくそのまま胸に抱く。激情や、怨念や、世界の崩壊さえ、現実世界の凍り付くようなことごとが体温を与えられ、生き物となって蘇り、深い祈りに包まれ、神話になって蘇る。
 我々介護現場の仕事の究極もまさにそうありたい。修羅場の連続。それも当然だろう、利用者ひとりひとりはあまりに大きい人生の課題を抱えている。その本質を避けず恐れず見つめる姿勢がいる。しかしそれらを無防備に受け止めては、激情の嵐に巻き込まれてお互いが崩壊する危険にさらされるので、守りの「器」や「場」が必要になる。タテタカコのライブには里の現場と同質の、創造的な器で生成された、たましいの物語に触れる体験があった。
 ライブが終わり、出口の階段を登りかけたところでタテタカコが「遅くまでありがとうございました」と声をかけてくれた。握手する。温かい手を両手で包み、こころのなかでタテタカコをかき抱く。外に出ると表は人混みだ「メチャクチャいいやつじゃん」いいやつというのは失礼だし、言葉としてもちょっと違う。でもそう言いたくなる。今どきピュアーに「ありがとう」と言える相手に出会うことは極めて希なことだ。
 ライブ当日の朝、同居している86歳になる母が「早う死にたい。なんで死なせてもらえんのじゃろうか」(母は広島弁100%)とグチを言う。「寿命じゃけん仕方なかろうが。神さんが決めることに文句言うちゃいけんで」と広島弁で返す。年老いて、二人の息子と同居し、恵まれた環境で今どき過ぎた幸運にも、素直には感謝できず、肩身が狭くて早く死にたい母の気持ちは複雑なようだ。
 昼には弟(重複障がい者)がワークの食事中ボランティアと利用者の言い合いにパニックを起こし、食器を床に投げつけて割ってしまった。夕方、ライブに出かける間際、弟に「ちょっと反省せにゃいけんの」というが無言でご立腹だ。「ひとの喧嘩に引っかからんようにせんと」とたたみが、彼の気持ちはその通りだろう。私は運命を引き受けることしかできない。 かける私に「じゃけん、わしゃ広島に帰りたいわい」と叫んだ。私の住む岩手に来るしかない事情だったが、彼の気持ちはその通りだろう。私は運命を引き受けることしかできない。
 銀河の里が始まって11年、その間必死で人を育てようとしてきた。個人面談にも力を入れて相当の時間とエネルギーを費やしてきた。しかし、多くが去った。情熱を掛け、期待をし、託す気持ちは通じにくい。累々たる見捨てられ感を敷き詰めて来た。それも私の宿命なのだろう。人生の限界が見える。
 そんな私にタテタカコの「ありがとう」が浸み、たましいに突き刺さってくる。彼女はこの世に存在するのが不思議なほどアニマ(たましい)な存在だ。見抜くまなざしが、詩となり音楽となり演奏に表現される。それは身体とたましいに直接響くのですっかりやられる。ライブの曲間にとつとつと語る口調は、この世の生きにくさや息苦しさを感じさせる。会場に展示してあった震災応援の作品を、出演者と同じように紹介し拍手を求めた。その絵にこめられた作者の魂魄(こんぱく)が彼女には見えてしまうのだ。彼女は人々の祈りや情念を見抜いて逃さない。彼女はライブハウスの音声さんが3日後に退職すると聞いて、花束を用意していた。その花束を渡すために「お願いがあります。もう二度とこんなことはいいません。いままでも言ったことはありません。でも今日だけはアンコールをください」と笑わせながら引退の花道を用意した。花束を渡しながら「(退職を)言ってくれてよかったよ。今度来て、いきなりいなかったらオレ、メチャクチャさみしいっすよ」とストレートな語り。ワシとかオレとかの一人称でこの世を生きる彼女がいる。
 演奏に入る前に彼女は少しのけぞり、息を吸う。そして憑依したかのように演奏を始める。目を見開き、口を裂けんばかりに開き、歌と共に彼女の本体が顕現する。シンセサイザーの弾き語りだが、おそらくメロディとか、リズムとか西欧音楽の域を超えた感覚ではないか。それは能の笛や、鼓のように、静寂を切り裂き、異界とこの世の境界を寸断して魑魅魍魎を跋扈(ばっこ)させる轟きになる。切り裂かれた此彼の境界からタテタカコに呼び覚まされた異界が舞い踊る。
 不思議なことに、現れた異界には怖さがない。怖いどころか、深い安心感に包まれる。これが忘れかけていた本当の世界だったと懐かしい感覚に包まれもする。現実にうちひしがれているこころを愛おしく包み込むような柔らかさを感じる。
 彼女はその鋭い感性で物事の本質を切ってくる。ぎょっとするような詩に一瞬たじろぐのはそれだ。切り離して繋がりを断つと、心やたましいは死んでしまう。切るのは存在への呪いだ。ところが彼女のアートは、繋ぐために「切れ」を「入れ」ているところが重要だ。鋏で「切る」と言わずに「入れる」というように同じ作業でもまるで違う行為になる。繋ぐ前提があってこそ「入れる」ことができる。我々の現場でも関係性に鋏を「入れる」のか、「切る」のかの違いは創造か暴力的破壊か真逆の結果になるだろう。
 そうは言っても「入れる」ことも「切れ」の作業だから、生身の人間としては打ちのめされるしかない。孤独を引き受ける強靱な祈り。そうした深い孤独と勇気がなければク リエイティブは成しとげられない。手塚治虫もブラックジャックに切り刻むメスを持たせて手塚ヒューマニズムの心をつなぐモチーフを描こうとしたのではないか。「切れ」によって「入る」厳しい仕事がタテタカコのアートにも裏打ちされていると感じる。我々もその道を怯えながらも歩み続けたい。打ちのめされ傷つきながら進む以外、なにも成されないのが生命というなのかもしれない。タテタカコの存在とその音楽が共感してくれている。
 今年の3月にはスタッフ20名でタテタカコのライブに仙台に出かけた。各々が深く感動したようだった。6月3日、そのタテタカコがついに銀河の里にやってくる。

参考文献:『無痛文明論』森岡正博
    『動詞人間学』多田道太郎
   『「切れ」の構造』大橋良介
   『ブラックジャック』手塚治虫
 
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