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誕生日の夢想【2012.03】
施設長 宮澤 京子

タテタカコの『誕生日』の歌詞は、衝撃的で生々しい!
暗闇に手をかけた       からはじまり、
誕生日 嗚呼 哀れむ言葉はない
嗚呼 夢想の悔いなど
溺れる君にあげる 一度きりのチャンスを
後ろ指を指された 一度きりのチャンスを
で締めくくられている。
 なぜタテタカコは、Happyで彩られるBirthdayをこうした歌詩で表現したのか。
 「溺れる私に与えられたチャンスは、後ろ指を指されたものだった」しかし、「一度きりの人生、暗闇から這い上がって挑む以外ない!」ということか?センチメンタルで薄っぺらい生き方への警鐘のようにも聞こえる。
 さて、運動体としての銀河の里は、何かが生まれ来ると きにはその前ぶれとして、青雲が蠢(うごめ)く。まだ海の物とも 山の物とも判別つきがたいうちから、何かが蠢き、時が来てやがて形になって現れてくる。その青雲の蠢きを、遠くぼんやりと感じる。
 近年ターミナルケア(終末期医療・介護)やホスピスという言葉がよく聞かれる。最近では介護保険における訪問診療や訪問看護等の在宅医療の普及もあって、特養ホームはもとよりグループホームでも「看取り」が研修会のテーマにあげられる。高度な医療技術の進展は「死」は敗北という医療の伝統的な意識を基盤に「延命」への多くの装置を作りだした。高度医療は「延命」とともに人の死を自宅から「病院」へ移行させ、一般化させた。しかし今は、癌などの末期患者の身体的苦痛を軽減したり、回復の見込みのない疾患の末期に、苦痛をコントロールし精神的な平安を与える医療や高い介護の質が求められている。
 先日BSアーカイブスで2006年に放送された『百万回の永訣 柳原和子 ガンを生き抜く』を見た。柳原氏は母親をガンで亡くした経験から、ノンフィクション作家として、多くのがん患者を取材して『がん患者学』を書き上げた。自らもガン初発から6年半を経て再発し、余命半年を宣告された時点で、その闘病の様子をドキュメンタリー番組として撮っていくことを決意した。それは画像とデータの医療的判断で「余命半年」の告知を受けた時の孤独感から、余命(死)を宣告された患者と医者の関係(在り方)に対する問題提起と、彼女自身の「生きることへの叫び」にあったのだろう。彼女には「医者は、闘病者の伴奏者になりえないのか」という問題意識があった。告知後、病状に一喜一憂し、抗ガン剤の副作用に苦しむ姿や、「生きたい」と亡き父母にすがり、京都の修験者の護摩供養に手を合わせる姿も映し出される。それと同時に、日本中のガンの専門医の中から、闘病の伴奏者となってくれる医師を捜し始める。そこで出会う医師達は、彼らの人格を通して医療が果たせる「希望」と「限界」を示し、彼女と共に治療内容を決定していった。固有名詞を持つ医師と固有名詞を持つ患者との対話は、共に病に向き合い闘う‘同志’とな っていった。
 彼女は、この番組放送の2年後に亡くなるが、ノンフィ クション作家としての使命を自らの闘病をドキュメントすることで果たし、「生」を全うしたのではないだろうか。
 ターミナルという人生の総決算期を、どこで、どんなふうに、誰と迎えるのか、これはほとんど選択がなく難しい問題だ。里でも3年前に特養ホームを開設してから、何人かの方とのお別れがあった。ホームで看取らせていただくこともあり、「死」をともに生きることで、私達自身の死生観を深めさせてもらっていると感じる。
 最近、私が意識させられるのは、「煉獄(れんごく)」ともいうべき 天国と地獄の中間領域についてである。(「煉獄」とは、カトリックで、死者が天国に入る前に、その霊が火によって罪を浄化されると信じられている場所。)
 特養ユニットのオリオンの朝の風景  98歳のホーム最長老のサチさん(仮名)が起床し、朝ごはんのためにテーブルに着く。お膳が運ばれ、朝食が始まるやいなや、手づかみにされたご飯が宙を舞い、スプーンが放り投げられ、お盆がひっくり返される。いつものことながら他の入居者にも緊張が走る。93歳の紀子さん(仮名)が「まま(ご飯)を粗末にするやつは、ゴンギリ叩いてやれ!」と、怒りから84歳の桃子さん(仮名)に指示する。桃子さんは天井を指さして「半分、上に逝ってる人だよ。俺たちは、サチさんの言葉を聞かねばねんだ。」と、神様になったサチさんを弁護する。さらに怒りの収まらない紀子さんは「分かんなくなったやつは、叩くしかねぇんだ。」と譲らない。「そんなに言うなら、紀子さんが叩けばいい。おらは神様に手上げることは、出来ない。」と桃子さん。紀子さんも「おめぇが出来ないこと、おらがやれるわけがない。」と涼しい顔で収める。その二人のやりとりをワキでじっと見ながら、にやにや笑っている90歳の輝美さん(仮名)。「もー止め!」と江戸っこ訛りで、かっこよく言う邦恵さん(仮名)。「おっかねぇ、」と涙目になって、そそくさと車いすでリビングを離れる康子さん(仮名)。こうした朝の騒動も含めリビング全体を守っているのは寝たきりの‘言葉で旅する’コズエさん(仮名)と、過去に‘24時間歩き続けたという武勇伝を持つ’ハルエさん(仮名)。二人とも、経管栄養のまっ最中。両者に挟まれた守りの中で、日々様々な事が起こっている。
 その中心にいるサチさんは、午前中は荒ぶれる神だが、夕方は癒しと守りの神に変身していることが多い。荒ぶれる神になると、この世の言葉は一切入らないが、癒しと守りのサチさんは、目をくりくりさせながら、その人の置かれた心情や状況にぴったりの言葉をくれる。オリオンの利用者は全員女性で、その時々に「鬼」を出したり「仏」になったりと、人間の多層な面を見せてくれる。ここで人生最終章を書き上げていることの意味はただごとでなく大きい。まさに天国に行く前の浄化という「煉獄」をイメージしてしまったという訳だ。(「煉獄」に鬼や仏はいるのか?)
 ところが、こうした豊かな日々の風景も、病気の症状が出ると、とたんに医療の「診断」「治療」「処置」という流れに様変わりする。そして、その先に敗北としての「死」がある・・・というのでは、あまりにも寂しすぎる。「ホスピス」や「ターミナルケア」の必要性が語られる背景には、人間存在への配慮が極めて重要になってきたという認 識の広がりであると思うが、欧米の合理主義的なシステム の受け売りになりやすい。もっと日本の文化にあった死生観から検討されていかなければならないだろうと思う。
 
人は生まれた瞬間から「死」に向かって歩む存在である。そこに人の絶対的な平等があり、救いさえ感じる。現場では、死に向かってどう生きたのか、どうあったのかを関係のなかでしっかりと刻印づけたい。銀河の里では制度福祉の枠を越えて、利用者、スタッフが共に暮らし、出会っていくことを目指してきた。それぞれが「社交の場」や「煉獄の場」・「異界の場」を繰り広げるのは、死への準備でもあり、遙かなる旅路への支度でもあろう。死をどう考えるかは、日常をどう深く生きるかに直結する。人はなぜ「看取り」を行うのか。現場で若いスタッフが死に教えられ、死者に支えられ、鍛えられることが現実に起こる。死に対する答えは永遠に出ないかもしれないが、だからこそ「看 取り」は、不可避の死を深く自分の内に引き受けて生きよ うとする人間の崇高な精神活動といえるのではないか。若者に引き継がれ、生きる力となりうる「命のバトン」としての「死」を見つめて行きたいと願う。

さて、そんな怪しい所に、近代自然科学の雄たる「医療」が関わるのは難しいことにちがいない。だが現代医療は「生きる患者」には有効だが、「死にゆく患者」には弱い。医療も新たな時代の「死」を模索する必要があると思う。
里が目指すのは、医療のone of themという限界を、「死」を通じて超え、生と死が双方向に支え合う関係を可能にする「場」の実現にある・・・と夢想する。
今月、58歳を迎えた誕生日の夢想。
 遠くに聞こえる青雲の轟きに時めいた。
 
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