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やわらい社会のおとずれを期待して【2012.02】
理事長 宮澤 健

 震災以降中断していたスパリゾートハワイアンズが2月8日に再開したというニュースがあった。炭坑閉山のあとに、ハワイアンを町おこしに持ってきたのはユニークで興味深い。時代の流れで炭坑が閉山し、仕事を失った炭坑夫に代わってダンサーが登場するとは華やかで色っぽくて象徴的に感じる。それが数十年も活躍し、震災を超えてさらに地域を励まし続けるという物語が逞しい。日本の未来はハワイアンに限らず、色っぽくて柔らかくて、暖かい社会であってほしいと願う。
 昨年の秋、研修で金沢に行った。金沢は豊かな文化を感じさせる町で、多くの文士を排出し、町並みも兼六園や茶屋街を始め風流に満ちている。その金沢で個人的にはこれまであまりなじみのなかった和泉鏡花の記念館に立ち寄った。その作品の怪しい魅力はハワイアンとも通じるような何かがある。100年も前の作品ながら、今もファンは多いようで、演劇などで取り上げられることも多くなっている。ちょうど、代表作「高野聖」をオペラ化して上演する企画が進められており、昨年、金沢で初演され、今年になって東京でも上演されたので観に行った。あらすじは、修行の僧が危険な山道に迷い込んで、蛇やヒルに襲われながら、命からがら抜けると山中の一軒家にたどり着く。そこに妖艶な女性がいて、色っぽく介抱してくれる。ところがその妖艶さに呑み込まれた多くの旅人が、ヒキガエルやコウモリや猿などの異形に姿を変えられている。馬に変えられて売り払われ、食料の代金にされたものもあった。
 「坊主のくせに命が惜しいのか」となじられるような僧侶ではあったが、先に行った薬売りが気がかりで、勇気を振るって危険な道を行き、命からがら抜けたところでなまめかしい誘惑に晒される。たいていの旅の男はここで異形に変えられてしまうと言うわけだ。臆病だが、純粋な修行者である僧侶は性的な魅力にいたずらに呑み込まれることをかろうじて免れ、むしろ聖者への道を開く。
うようよと襲いかかる蛇の大群や、無数に降りかかって血を吸うヒルの雨も、どこか性の生々しさや誘惑のイメージが重なる。深山の谷底の清水で、傷ついた体を癒してくれる女の裸身は抗いがたい性的魅惑に満ちている。性的な誘惑に、純粋に戸惑う心で性を貶めなかった僧は、異形に変身させられることなく、聖者への道を歩むことができた。後に物語のなかで明かされるのだが、一軒家の女は、15年前の大洪水で流された医者のひとり娘だった。近代化の波に呑み込まれ、伝統的な山奥の文化が終焉し、その霊が山奥の一軒家に籠もり、その怨念が妖艶な女性の姿として住まっていたということなのか。いずれにせよ性を貶めることなく尊重できるかどうかはとても難しくて重要なことだ。タブーで無いことにはできないし、呑み込まれたり、無下に扱っては異形にさせられてしまう。ハワイアンも当初は、低俗だとの強い批判もあったようだが、ショーとして文化的な次元まで引き上げる努力がかなりなされたのではなかろうか。
 性をどの次元で扱うのかという態度は、我々の介護現場では特に重要だ。修行僧が、欲望に揺らぎつつも、性を聖なるものとしてあくまで尊重し得たところがこの作品のポイ ントではないだろうか。そうした視点から現代を見ると、性は丁寧に扱われるどころか、大水で流され、山奥に追いやられて、呪いになりそうな実態がある。
昨年暮れから横浜美術館で開催されている松井冬子展の作品群は、そうした現代において、性の復活を予感させるような仕事ではないかと感じた。身体が切り裂かれ、臓器が露わになったり、蛇の体が裂けていたり、血がにじんだ人体が並び、表面的にはかなり痛々しい図が展開される。これは、高野聖で蛇に襲われたり、ヒルに血を吸われて逃げまどう感覚とどこか通じる。作者の松井冬子は女性の身体的な感覚で描いていると言っている。テレビのインタビューを見た程度で失礼だが、作者本人は病的でも神経症的でもなく、ケロッとしているような印象を受ける。作者は絵かきとして、女性の身体性や感覚はこういうものなんだと、いまのところ、その本質をわずかばかり突きつけてみたといったところではないかと思う。(もちろん気軽に描いたわけではなく血みどろの格闘の作品群であることは当然だ)ただ少し露わにしてもここまで衝撃的に痛々しさを感じさせる作品になるのだから、血を見たくない秩序社会にとっては、衝撃的で、今まではこうしたことをあからさまできないタブーが絵画の表現にもあったのではないだろうか。
 展覧会では、解説の文章を一生懸命読んでいる人が多かった。観客はその作品から不安や疑問を引き出されるようだ。解説文には心理学用語がたくさん使われていた。内的な表現に満ちた絵だと言うことだろう。彼女の作品は男性と女性ではかなり受け止め方が違うだろう。女性にとっては当然の風景に近くて、男性にとっては痛々しくて勘弁してくれと言う感じではないか。作者の松井冬子は30代の作家だが、彼女の作品が今後どう展開していくのか気にかかる。女性性がテーマであれば生み育てるモチーフが出てきてほしい。今回、生まれる絵は一枚だけあるのだが、それは色のついていない、小さな作品だ。トンボがヤゴから成虫に孵化する瞬間を描いた精密画だが、トンボじゃもの足りないし、色がついていない。大きな画面の、人間の誕生を期待したくなったがどうなるだろう。代表作で美大の卒業制作でもある「世界中の子どもたちに会える」はそうしたテーマをすでに内包しているようにも感じる。
  2月入って、銀河の里の研修でも何度か鑑賞し、お馴染みになった林英哲の太鼓を久々に観た。活動40周年記念のソロコンサートはいつものように迫力に満ちて感動をよび、例のごとくスタンディングオペレーションが自然に起こった。直前に聞いたラジオインタビューで英哲の実家はお寺さんで、鳴り物に囲まれて育ったと言っていた。「英哲の太鼓には祈りがある」と以前、通信に書いたことがあるが、これで納得した。あの世に逝った仏さんのお世話をするお坊さんがパフォーマンスでは品がない。あくまで内的で儀式中はこの世の人間に目を向けないのがいい。英哲はやはり必死で祈っていた。祈りを忘れた男性性は簡単に女性性を貶めてしまうように思う。ひたすら太鼓を打ち続け、後ろ姿で引きつける姿は、男性性のモデルを感じる。2日前に還暦を迎えたという英哲の太鼓はみじんも体力の衰えを感じさせなかった。力ではない何かを彼は身につけたにちがいない。
 英哲の翌日、能の卒塔婆小町を観た。これまた女性性を 考えさせられた興味深い能だった。美人の代表とされる小野小町が老いぼれて、墓場で卒塔婆に腰をかけて休んでいる情景だけでもあれこれイメージが浮かんで来る。老いぼれたとはいえ、小野小町の気位と知性はワキの旅の僧を圧倒する。卒塔婆小町のワキはワキツレがいて二人がかりだ。それでもかなわず、二人のワキは恐れ入ってひれ伏すしかない。観阿弥作で世阿弥がかなり手を入れたというこの能は、世阿弥好みらしく、素人から見るとほとんどシテの動きはない。動かない2時間の演技に勝てる表現があるだろうか。観客は自らの内面に湧き起こるイメージや思惑に圧倒されるか、あるいは退屈で熟睡するかどちらかだ。すごいことだ。
我々現代人はあまりに科学的、分析的に物事や人間、人生を記述したがる。もっと主観や、感覚、直感で迫りそれが活かされる必要があるだろう。他者は感じる私の中に現れてこそリアルに存在するのではないだろうか。自分自身 もそうだ。私を感じてくれる他者の情熱の中にこそ、私という実感は湧き現れる。卒塔婆小町が動かない分、観客は揺り動かされる。その心の揺れの中に老いた小町が強いリアリティを伴って顕現するのではないか。
  我々はかなり「性」を損なった時代を生きている。官僚的、お役所仕事、システム、管理、情報、などの洪水に押し流されてしまって、風情も風流もない乾いた景色に囲まれている。長い間、山中の奥深くに追いやれていた妖艶な女性性は、いま形を変えて冬子のような作品を通じて社会に登場しようとしているのかもしれない。その女性性は、英哲のような静かな祈りの男性性をパートナーとして必要とするだろう。益々、閉塞感が強まる時代に、止まって動かない老境の小野小町の秘めた気高さは魅力的だ。高齢者介護と障がい者支援の現場から3.11以降の日本と世界のありようの模索を、たどたどしくも続けていきたい。
 
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