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事例に向けて【2012.01】

特別養護老人ホーム 村上 ほなみ
 

 「将来は介護の仕事に就く」そう心に決めたのは小学生の頃だった。迷うことなく福祉科のある高校に入った。現場の実習に行き、介護士の仕事を見たり、聞いたりできると期待した。しかし、実際の現場はイメージとかけ離れていて、違和感と苛立ちがつのった。食事を美味しそうに食べている人がいない。自由を奪われたように、言いたいことも言えず、行きたい所にも行けない利用者。トイレに行く時間さえ決められていて「トイレに行きたい」との訴えにため息をつく職員もいた。“これが介護現場の実態なのか…”とうちひしがれる思いだった。入浴介助では、大勢の利用者さんの衣服をどれだけ速く脱がせることができるかとか、時間内に何人の髪を洗えるかということが求められた。入浴後もスイブンセッシュの作業が続き、人と関わることのできない環境だった。“私がやりたいのはこんなことではない”と思った。それでもレポートには「勉強になった」「見習いたい」などと仕方なく書いた。
 そんな折り、担任の先生から「この施設、ほなみさんにどうかな…」と、銀河の里を紹介され里のホームページを見た。あまのがわ通信には利用者さんとスタッフのやりとりが細かく書かれ、生き生きした人間関係を感じた。利用者さんだけでなく、スタッフのドキドキやモヤモヤも書かれていて読んでいて面白い。写真には笑顔があふれ、暮らしに満ちた雰囲気が伝わってくる。直感で“私が探していたのはここだ!”と思った。そして実習をお願いした。実際の銀河の里は私がホームページでイメージした以上に人間味にあふれていて、私にとってまさに理想の介護施設だった。柔らかくて温かい雰囲気に満ちていて、利用者さんもそれぞれ好きなことをして活き活きしている。今までの実習での記録は“食事量、排泄チェック、入浴時間”に限られていたが、里のケース記録には、会話や表情、エピソードなどびっしりと書かれているので驚いた。利用者さんの人生に迫ろうとしている。“これだ!私が求めていたところだ”と感激した。
 両親は実家から通える沿岸の就職先を望んでいたが、私は反対を押し切って銀河の里に来た。ところが、銀河の里では特養を開設した年で、私はその特養に配属になり、特養立ち上げの緊張感があり、やる気に満ちていた。「牛いるか〜!?」と夜に起きてくる畜産をやっていたという利用者さんなどと出会ってワクワクした。しかし、その頃の特養は他の特養での現場経験のある人達がしきっていて、利用者さんに対する里らしい眼差しは全くなかった。仕事は時間で区切られ、作業をこなすばかりで、高校の時に辟易した実習と同じだった。私としては意欲はあるのだが、高卒の最年少で右も左も解らないまま翻弄されてしまっていた。当初から理事長は個人面談をしてくれていたが、私がつぶれると感じたのか、1ヶ月後グループホームに移動になった。
 グループホームは、別天地でやりたいことを思い切りやらせてもらえた。利用者さん一人ひとりとじっくり向き合うことができた。それを支え深めてくれるスタッフがいた。その一方で、特養は益々たいへんなことになっていた。特養を何とかしたいと、半年で私は特養に戻る。
 驚いたことに、元いたユニットはさらにひどくなり、すっかり荒んでいた。利用者さんとスタッフの間にきっぱりと線があって、利用者さんと関わろうものなら、たちまち、「話しばかりして仕事をしない」と後ろ指を指されて、嫌がらせをされた。嫌でも時間通りに帰らなければならず、残っていると冷たい視線を浴びた。次第に、何も考えられなくなり、すっかりふさぎ込んでしまった。そんな時、利用者のタクヤさん(仮名)が「いいのか。じっくり考えなさい」といつも私に言葉をくれた。「人と比べられたっていいんです。なんと言われてもやるの!負けるな!!」「ここで終わりと思ったらそこで終わり。上にも下にも人は居ないの。尊重して、付き合うの。やるんだ。」などなど。いつも利用者さんに教えられてきた。
 すさんだユニットでは利用者さんもおどおどした感じで、自分を出さず、押し黙って、部屋に閉じこもり続けた。中でもユキさん(仮名)は、以前と全く変わってしまっていた。ユキさんは花や綺麗なものが好きで、生け花や塗り絵など楽しいことをいっぱいしたいと話してくれて、“優しくてかわいいおばあちゃん”という印象で、これからユキさんの暮らしをどう作って行こうか楽しみだった。ところが半年ぶりに特養に戻った時、ユキさんは、心を閉ざし、リビングで笑うこともなくなって、介助に入るスタッフに「殺される!」を連発した。そう言われるスタッフも何とも言えない気持ちだったと思うが、その時期のユニットの雰囲気を考えると、ユキさんの追い詰められた状況に心が痛む。ユキさんらしさが消え、お尻には大きな褥瘡ができていた。寂しがり屋で甘えん坊のユキさんは、関わってもらえず、理解もされない状況に、ひねくれ、荒れていったのだと思う。
 お風呂に誘うと「オレばりバカにして!殺す気か!?オレだってタダでここに居るわけでね!みんなと同じようにコーヒー飲ませろ!」と抵抗するユキさん。ビンタを食らったり、引っかかれたりしながらの入浴で、お風呂に入る意味を見失しないそうになったが、そこまで追い込んでしまったのは当時のユニットの雰囲気だった。ユキさんに迫ってユニットを変える挑戦をしようと「ユキさんノート」を作ったが、それは1週間で行方不明になった。「利用者さんと心を開いて気持ちを通わせながら一緒に生きていく」という当たり前のことの実現が、これほど困難なことなのかと信じられない思いだった。当時のスタッフは、時間通りに帰れないとか、余計な仕事をさせられるのではないか等々、裏で噂が飛び交い疑心暗鬼が蔓延し、組織に対する警戒感を募らせていた。私の理想は甘チョロいものでしかなく、私を支えてくれる先輩もたくさんいたのだが、私は立ち向かう力も術も持っていなかった。
 どうせアウェイで話しを聞いてもらう人もいないので、私は徹底して居室に入り、利用者さんと付き合うことにした。特にユキさんは手強かったので、ユキさんに関わっていても、スタッフから文句や後ろ指は指されなかった。そのうち、ユキさんのひねくれながらも可愛い性格が見えてきた。すんなりは行かないものの我々の関係は動き始めた。手紙で「今日、一緒にお風呂入ろうね」とイラスト付きで書いて渡すと「オレ、夜入るもん!」とむつくれながらも、その手紙を丁寧にたたんで枕元に置いてくれた。その手紙は2年経った今でもユキさんは持ってくれている。
 当時は、私とユキさんとのそんなやりとりを見守ってくれるスタッフは少なく、利用者さんと向き合う前に、スタッフとの戦いがあり、介護にかなりの抵抗をともなうユキさんと向き合うのが辛くなることもあった。
 そんな時に私を支えてくれたのが利用者のクニエさん(仮名)だった。クニエさんは寝たきりでほとんどしゃべれないが、心で話せる人だ。リビングでもいつも遠くから私を見ていてくれた。スタッフが気づかないこともクニエさんは解っていてくれた。居室に行くと手を伸ばし私の手を握ってくれて、話を聞いてくれる。その頃から、私はクニエさんの居室で数え切れないほど泣き、笑い、支えてもらった。ユキさんノートが無くなった時も、再びノートを作って戦うべきだったが、さすがに戦意を失っていた。そんな私をクニエさんはかくまってくれた。1人で居ると不安で、クニエさんのところに行った。大きな敵に立ち向かうだけの力は当時の私はなかった。
 私はユニットのスタッフとの戦いは組織に任せて、クニエさんに守られながら、ひたすらユキさんに向かった。何度、格闘しても、怒鳴り合って関係がギクシャクしても、いつも最後には繋がってきてくれるのがユキさんで、それが分かるから挑戦することができた。花火大会も2年続けてユキさんとクニエさんの3人で手を繋いで見た。ユキさんの誕生日には旦那さんと住んでいた自宅に行った。大好きなお寿司も食べに行ったし、マルカンドライブにも行った。こうして2年半の間にいろんな物語ができたが、特養2年目はまだまだ厳しい状況が続いた。10月にはたまらず同僚と二人で「みんな辞めさせてください。二人で休み無しでやります」と理事長に訴えたこともあった。無謀な話しだが、幾分私も自信が出てきたのかも知れない。3年目に入って、ユニットのスタッフが一新し、雰囲気は一変した。
 そんなユニットの変化と同時に、ユキさんの態度も激変する。男性スタッフの広周さんを恋人兼息子にしてラブラブになった。「広ちゃん、ユキちゃん」で呼び合い、いつも「広ちゃん」が気になるようで、ほとんど動かなくっていたユキさんが自分で車椅子を動かして隣のユニットまで会いに行ったりもした。ある時、ドライブで広周さんの家に遊びに行って家族と一緒に写真をとってきた。本当の家族のように並んで写ったこの写真をユキさんはずっと大切にしている。そしてここに来て二人の関係は少しずつ変わってきている。お互いの“大切” な人という思いは変わらないのだが、ずっとくっついていなくても心は繋がっている感じになってきた。広周さんを遠くから見守っているユキさんがいて、入浴に誘うスタッフが「お風呂から上がるまで広ちゃん待ってるから!」と言うと「広ちゃんは関係ない!広ちゃんとは別!!」と言えるのだ。遠くから息子が頑張る姿を見守る母のように。これから、お互い自分の道を歩もうとしているのだろうか…。
 私も今、クニエさんとそれぞれの道を歩み始めた。一体感の中に閉じこもって一緒に居ないと不安になっていた時期を乗り越え、私もクニエさんも違う場所で自分らしさを取り戻しつつある。そこを経験させてくれたユキさんや私の居場所をつくってくれるフキさん(仮名)にも感謝したい。


 銀河の里と出会い、特養の立ち上げの濃密な日々を過ごしてきた。その間、たくさんの人と出会い、たくさんの人との別れもあった。3,11の震災では、故郷の町が津波に呑み込まれ、多くの知人が亡くなった。家族とも1週間連絡がつかず不安な日々を過ごした。情報は「沿岸部は壊滅状態」ということばかりで、絶望的な思いに駆られていた。母校の高校は遺体安置所となった。2年後に廃校が決まった。震災直後は不安を抱えながら仕事に打ち込み、利用者さんや業務に向かうことで自身を支えられたと思う。震災は個人的体験を超えて傷が深すぎてまだまだ納めきれない。それでも現場に立ち、利用者さんと向き合う中からしか私の答えは出てこないと思う。この2年半の多くの出会いと別れ、その全てに意味があり、鍛えられてきた感覚を今年は特に身をもって実感した。ふとした瞬間に思い出して心が和んだり、我慢しないで涙を流せたりする私がいる。関係に支えられ、頑張ることができる。利用者さんと語りあったり、大声で怒鳴りあったり、些細なことで笑いあったり…。その一瞬一瞬が感動として思い出として私の心の中に残っていく。
 関係性を大切にしようとする里の仕事のありように私は魅力を感じる。銀河の里10周年記念事例集に、私はユキさんとのことを書きたいと思っている。全くの子どもで甘ったれの私が、多くの人に守られながら課題に向きあい、泣きながら挑戦してきたこの2年半。そこにいてくれたクニエさんやユキさんとの人生の一コマに迫ってみたい。ユキさんの変化、ユキさんとのやりとり・格闘。そのなかで自分の感情がどう動いたか、苦闘、辛さ、喜び、感動を書いてみることで、また違うユキさんと出会えると思う。そして、そこに新たな自分を発見していきたい。


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