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「銀河の里」の物語・・・その多義性 (その2)
  
―――― 河合俊雄著:『村上春樹の「物語」』から  【2012.01】

施設長 宮澤 京子
 

 前回は、村上春樹が述べた建物の「地下1階」とか「別な空間」という比喩から、銀河の里での人間理解はこうした異界次元の存在に支えられて成り立っていることが見えてきた。しかし、いきなり地下空間にふれることはまずないので、「出会い」の入り口である建物1階がそれなりに重要であることを強調しておきたい。
 誰の目にも見ることができる1階部分は、ハードとしては、建物の構造やデザイン・間取り・備品・調度品など、使い勝手の善し悪し等、「施設管理」志向でいくのか「暮らし」志向なのかセンスも露わになるだろう。またソフトでは、職員の配置や介護技術のレベルの質が問われる。その他、立地場所(都市か郊外)や地域性(商業地域か住宅街が農漁村等)も、どう生かすか大切な要素となるだろう。
 これら1階部分は、客観的に数字で表すことができたり、目で見てわかるので、評価事業の対象にされやすい。福祉施設管理者は、一般的に建物の整備をしたり、書類に整合性を持たせるよう管理を強化していく事に、神経の大半を使うことになる。そうして評価基準に合わせて書類を積み上げ、重箱の隅をつつくような枝葉末節に振り回され始めると、利用者の人間や人生そのものが遮蔽され「誰のための、何のための」と言った本末転倒ぶりが甚だしくなり、人生や人間の生命の次元からすればアホらしいことに終始しまいがちだ。そして外部評価・情報公表・指導監査等々には、そうしたアホらしさをさらに上塗りするような1階部分に限定した、しかも書類を整えるという世界しか持たない役人や調査員がやってくる。これが数十年繰り返されると、現場も表面を整え、彼らの求める書類や要望に素速く応えることが福祉だと勘違いし、次第に一丁上がりの「ちゃんちゃん福祉」に陥って、指摘がないことで仕事ができていると思い込むようになる。そうなると、決まって人間としての表情が失われ、間抜け面をさらし、皮肉や嫌がらせをするくらいが生きる楽しみでしかない人間に成り下がるから怖い。人生や人間が書類や管理におさまるものではないという当たり前のことが見事にわからなくなる。残念ながら大切な事柄は、隠されている。地下に降りていく知性と勇気によって、そこにちりばめられた物語と出会い、人間の深奥を生きる通路の入り口としての地上1階部分の役割を忘れたくない。
 余談だが、里の小規模特養ホームの平屋木造の土台には、なんと1200本の杭が入っている。埋め立て地に建てたわけでもないのに、「安全性の担保」ということで、この杭に想定外の多額な出費となった。災害で上物が崩壊しても、確実に1200本の杭は残るだろう。弱小法人が、見えないところに杭を打ったもの「里」らしいということだろうか・・・。
 さて本題であるが、この本の最終章の「再び物語へ」の内容を要約しながら、考察していきたい。村上春樹の小説は、一つの筋で完結するのではなく、いくつかの視点や物語が入りまざる。『1Q84』にも、二種類の物語があり、青豆と天吾の物語と小説『空気さなぎ』という新興宗教団体「さきがけ」の超越性に関わる物語が入っている。
 ところが『1Q84』のBook3では、青豆と天吾の愛という人間の物語の方が全面に展開する。それは、読むものには分かり易いが、より深層な物語が隠蔽されてしまうことでもある。村上作品には、全体の物語よりそこに組み込まれた小さな物語によって、中核的なことが示される事が多く、その小さな物語は、奧の深層から浮かび上がって、得難く隠されているからこそ重要に思えるという。
 大きな物語と小さな物語の関係を人類の物語の歴史から考えていくと、神話や儀式が部族に共有されていたプレモダンな世界においては、全体を包む大きな物語の方が深層にふれており、個々人の生活やその物語は、取るに足らない小さな物語にすぎなかった。ところが村上春樹の小説の場合には、大きな物語と小さな物語との関係が完全に反転して、『空気さなぎ』に代表されるような小さな物語は、プレモダンの世界や、超越的なものを感じさせてくれ、物語の要になっている。さて『1Q84』の中では、『空気さなぎ』が小説として世に出版されて以来、「声」が聴かれなくなってしまう。つまり死の世界、超越の世界が描き出されることによって、むしろあちら側とこちら側との関係が絶たれるのである。村上春樹は、小説の中でポストモダンという喪失の世界を描きながら、プレモダンのパワーを感じさせ、独自な構造で物語を展開させる。今後『1Q84』Book3で消えていった『空気さなぎ』の物語は、天吾によって新たな物語として完成されるのかもしれないという期待を持たせる。
 銀河の里という大きな物語の中にも、いくつもの小さな物語が重層し、かつ点在し、それぞれが布置している。それらの物語は現代人が失ってしまったプレモダン的な霊性の力を秘めており、あらゆる霊的なエネルギーを喪失した現代社会において宝のような存在として感じる。それらを発見し、守る挑戦が銀河の里の本態ではないかと思う。


 グループホームの利用者クミさん(仮名)は、時折「お声」が聞こえる。お声が入ると誰が声をかけようと現実の声はまるで届かなくなる。お声が来る度にクミさんは、「来いと呼ばれた」「待ってるから行かねばねぇ」と荷物を抱えて出かけていく。その都度、職員が一緒に歩いたり、車で迎えに行ったりするのだが、日に7,8回出かけることもある。里から7kmほど離れたところにある実家に向かうことが多いのだが、かなり確実に実家への道をたどる。私も何度かクミさんのそんな旅につきあったことがあるが、クミさんの「ここさ曲がれ、あっちさ行け」との案内で実家に着く。実家は、稲荷神社の入り口を入った奥にあり、日中でも薄暗く、こんもりした立木の中を通り抜ける時に、なぜかヒンヤリした感触が肌に残り、異界に案内されたような気持ちになる。
 ある日、深夜3時、クミさんがいないと夜勤者から緊急連絡が入った。寒い夜で降っていたみぞれが雪に変わっていた。理事長や数人の職員で、離ホーム捜索マニュアルに従って各方面の捜索を開始したが、私の中では「あそこだ」という確信めいたものがあった。稲荷神社の奥の実家。草木も眠る丑三つ時の深夜、あの場所へ向かうには、いくらか勇気を必要とした。しかし、そんなことは言っておられない。夜勤者が不在を確認してから1時間以上経っているし、この寒さ。何としても発見しなければ。北上川にかかる橋を渡り、田舎道に入ると、稲荷神社の入り口を過ぎた。「どうか、クミさんと会えますように」と祈りの言葉が口に出る。木立の道を過ぎると家の前で、ぼぉーっと立ちすくむクミさんを見つけた。「良かった!」と一安心。車から降り、「クミさーん」と抱きしめると身体が冷たい。まだ「お声」があるようで「行かねばねぇー」とただならぬ目をして、力が入っている。まだあっちの世界にいる。でも濡れた衣服でこの気温のなか戸惑ってもいられない。「クミさん帰ろう、温かい所に行こう」と強引に助手席に乗せる。多少抵抗はあったが、車に乗ってからは、疲れもあってか、前屈みでぐったりした様子だった。とても話しかけられなかったが、「良かった!いてくれてありがとう!」と涙がこぼれてきて道路の先が滲んで見える。
 クミさんを呼ぶ声は、一体どこからやってくるのか?なぜ、みぞれの夜中に、上着も羽織らずに出かけていくのか?クミさんを駆り立てる見えない世界が存在する。夜中に非常口から塀をくぐり抜けて出たり、窓から自分の荷物を全部放り出したり、「お声」は彼女を突き動かす。幻聴、妄想と言ってしまえばそれだけのことだが、クミさんのお声や行動は不思議なことに、クミさんや一族が抱えた現実の出来事や問題と直接に絡んで動いている。親戚の誰かが亡くなられたときには、その前後からお声が激しく、動きが頻繁になる。この夜の外出の時は、クミさんの身元引受人だった弟さんが亡くなり、経済的な問題が持ち上がっていた。クミさんは、弟さんの葬儀に参列はしたものの、クミさんのなかでは弟さんはまだ生きていて、その弟さんの嫁探しをしなければならない。「お声」は、その若い頃に帰る能力とそこを生きる力を感じる。「本家」「カマド」「嫁・姑」といったしがらみと、農家の働き手として頼りにされた、よき時代が併せ被さる。そこはクミさんの人生の「居場所」そのものだったところだ。
 一方、現実にいるときのクミさんはめっぽう修羅場に強い。救急車が来たりすると、冷静に準備などを手伝ったり、諍いごとでもめているときには静かに間に入って収めたりもする。「お声」がかかったときの旅は、あらがえない何ものかに誘われているのだろう。スタッフはその都度、知恵を絞りながらクミさんに同行し、その世界に触れさせてもらう。
 人間は地上1階に普段は住んでいるが、1階だけではない。地下1階もあるし、さらに地下2階や、その奥もあるらしい。現代は地上1階しかないという前提で世の中が回っている。そこでは人間の持つ全体性は確実に損なわれ、傷つき、癒されることはない。現代人は1階部分に閉じこめられ、自らの階層を自由に行き来することができない状況に追い込まれている。特に若い人たちのこうした状況による傷つきは、暴発的な暴力に至る危険を孕んでいるように思われる。
 地上1階にいる介護が必要とアセスメントされたクミさんだけではなく、地下で出会う時空を超えたクミさんも含めて、クミさん本体とも言うべき全体像が浮かび上がってくる。人間の全体像は階層構造を持っており、クミさんの全体像に触れることによって、1階に幽閉された呪縛を解き、そこに関わるスタッフも自らの階層を経験することになる。こうした体感による出会いや経験こそ、たましいの行き交う新たな地平に立つことを可能にし、若い人たちの新たな世界を切り開く「希望」へつながるのではないか。
 問題は、時と場所を間違えてこうした「物語」を公にするわけにはいかないということだ。「1Q84」のbook3のように『空気さなぎ』の出版によって、声が聞こえなくなることは起こりうる。深層の物語が隠されて、全体性が損なわれる危険性は自覚しなければならない。


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