トップページ > あまのがわ通信 > 2012年 > 1月号 嫌われる高齢者 「そうそうたる男の面々 〜好きか?嫌いか?」

嫌われる高齢者 「そうそうたる男の面々 〜 好きか?嫌いか?」 【2012.01】

副施設長 戸來 淳博
 

 『介護現場は、なぜ辛いのか − 特養老人ホームの終わらない日常』(新潮社)という本を読むと、極めて一般的な特養の日常が描写されていた。ヘルパー2級を取得し、自らも特別養護老人ホームで数ヶ月間勤務された体験もあるこの著者なら、「銀河の里」をどう感じてくれるのだろうと理事長が手紙を送った。早速返事をいただき、上京の折にお会いした。昨年の11月には、著者の本岡類さんの来里が実現した。
 本岡さんは各部署を見学され、特養の入居者と夕食をともにし、その後のユニット会議にも参加された。会議の最後に感想をうかがうと「一般に介護施設では、男性利用者は嫌われることが多い。それはなぜなのか」という質問が出た。
 僕は「会合や飲み会やら、世の中の大人と関わる機会はたくさん有るけれど、そういう場は大の苦手。嫌な男性ばかりと感じて、できれば関わりたくない。ところが、銀河の里という場で出会う利用者とはどこか繋がれるし、深く関わりたくなる。」と応えた。一般社会では肩書や所属が表に出て、本音とか、人間そのものには出会えない。本当の姿は見えないようになっているのが社会だと痛いほど感じさせられるので不安になるのだ。しかし、里という場は全く違う出会い方ができることを体験してきた。里にやってくる利用者さんは、どこか人生の課題や、何らかの傷を背負っていると言える。銀河の里は特に認知症の施設中心なので、認知症によって、家庭や地域では生活が困難になったり、時には手を焼かれて手に負えない状況にある人も少なくない。老いや障害、死という普遍的なテーマを否応なしに背負った人として出会うことの意味は大きいと思う。それは私自身の持つテーマでもある。世間ではそうした課題を共有できないばかりか、語ることさえ憚られる。銀河の里は、人間普遍の課題に共に向かい合える場なのだと思う。里は、個人の高齢者の「好き嫌い」を超えた関係に入っていける場だと言えるだろう。そこでの仕事はおそらくプロの領域に属することではないだろうか。かつて介護は、育児と同様、家庭内で主に女性がその役を担っていた。近年それらは社会的にアウトソーシングされ、サービス業として立ち上がり、かなりの規模の産業ともなった。もともとは誰でもできる、専門性を問われることのない仕事だったのだが、それが社会化されると資格制度もでき、専門性が問われることになる。ところが現実には、介護現場の専門性はかなり低く社会的評価も高くはない。現実にも就職難の時代に厳しい人手不足が続いている職種である。介護現場では、主婦のパートレベルの労働力で大半がまかなわれている現状もあり、世間話レベルの次元で「男性利用者は嫌われる」ということが起こってくるのではないだろうか。
 銀河の里では、他の施設で利用を断られたり、拒まれた方の利用がよくある。これまで「集団生活になじめない、周囲に迷惑をかける、手がかかる」となると、少し利用料は高いけど、致し方なく里を紹介されるというケースが多かった。そこではスタッフも世間の感覚で「好き嫌い」を言っていては仕事にならなかった。暴力行為があり他の利用者に危害を及ぼす恐れがあるとして、他のデイサービスの利用を断られたYさん。障がいで会話が困難となったのだが、人なつっこい性格や、豊かな感情が災いしてか、身振り手振りが派手になってしまうのだ。表面上その通りで、周囲の利用者も嫌がったかも知れないが、それを暴力行為と捉ていいものかどうか。介護現場の人間理解の専門性が問われるところではないかと思う。この方は里で11年デイサービスを利用され、8年目あたりから、かなりの会話ができるようになり、周囲との関係も激変したという、まるで奇蹟のようなケースになった。
 一般に嫌われる人は、男女に関わらず、個性が強く、その個性を覆い隠すこともなく前面に押し出し、他者にこれでもかと押しつけてくるようなエネルギーのある人だ。認知症や障がいによってそうした傾向が強くなった場合もあれば、もともとの性格の場合もある。地域や福祉関係者からも厄介者扱いされがちである。市の包括支援の担当者から「大変な人がいるのよ」と言われ実際会ってみると、むしろ人間的な魅力に満ちていて、人間の普遍的課題を背負って格闘し、向きあっているという場合が多い。日本の世間様はこうした方々の秘められた真の魅力を理解できにくいようだ。
 権威に対して抵抗が強く、役所や病院などが大嫌いなケースがあった。在宅でひとり暮らしなのだが、訪問や調査を頑として受け入れず介護認定もなく福祉サービスをつなげられないでいた。市の担当者や保健所、社会福祉協議会の職員、民生委員など様々な担当者が訪問するのだが、怒り散らされ、嫌みや時には罵詈雑言で追い払われた。私が訪問したところ、割とすんなりと受け入れてくれて、数回目の訪問では家に上げてくれて、「飯を食っていけ」となった。つまり親しい人間関係への切望があり、役割でこられると深く傷つく心情があるのだ。「人としてつきあえるか」と問い詰めるように語られることもあった。しばらくして私はその方を車に乗せて介護認定のための受診をした。雰囲気の柔らかいドクターを選び、あらかじめこの方の性格も伝えておいた。「悪い医者じゃないな」と帰りの車で言ってくれた。役所からは「相談員が車に乗せるのはいかがなものか」とクレームがあった。それでもなんとか介護認定を受け、いざとなればサービスに繋げられるように整えたが、それから5年間サービスを使うことは一度もなく、自宅で亡くなられた。それはそれで見事な生き方ではなかったかと思う。
 地域では長年、変人で鼻つまみ者でとおっていた一人暮らしの女性Kさんがいた。見守りや介護が必要になり、デイサービスを利用していたが、デイでもわがままで嫌われがちだった。特徴は、時間や職員を独り占めしてしまうところで、迎えに行っても、車に乗るまで30分以上かかったりする。ヘルパーを一日独占し、総合病院の全診療科を巡り、どこも異常なしと言われて帰ってくることを繰り返した。冬は寒いからと頑としてデイサービス利用を拒むので、ケアマネは配食弁当を手配したが、生活環境は劣悪で、トイレもなく、動ける時は近くの用水路に排便を捨てるので近所から苦情が出ていた。しかし歩行が困難になると、それもできなくなり、部屋はゴミと排便だらけで、訪問ヘルパーは排便を庭に埋めることが主な仕事になった。こうした状況で、冬期間を生き延びられるかと心配されたが、ふた冬を越し、やっと生活保護が通り、あるグループホームに入居になった。グループホームでは「今まで通りの生活をしてもらっていいですからね」と教科書通りの入居時の説明をしたが、それが裏目に出た。下着姿で過ごし、部屋での排便では、グループホームはたまらなかった。1ヶ月で退所となった。致し方なく、特例として里のグループホームで受け入れることになり5年目になる。時間ジャック、スタッフジャック、わがまま放題は変わらないが、なかなかの人気者で、通信への登場回数も多く、語録も豊富だ。辞めた職員もたまに訪ねてくる。彼女の不思議な魅力は、里の守りの中でこそ発揮され、受け入れられているのだと思う。
 嫌われる行為の主なものは、暴力、怒り、わがまま、ひねくれ、騒音、セクハラといったところだろう。普通は社会的にも許されない。しかしそれを抑えて生きることができる場合とできない場合がある。それらは無しにはできず、人間の業として強いエネルギーをもって蠢いている。そうした鬼を外からの力で抑えこむと、返って暴発し収拾がつかなくなる。里にはそれらを一旦、受け入れる器があると思う。鬼をなだめ鎮めるには、ある種の理解と祈りが大切なのだ。
 本岡さんは、手紙で、「銀河の里の若いスタッフは世の中の爺さんを知らないのではないか、閉ざされた里で出会う年寄りしか見ていないのではないか」と懸念を示された。マスとしての高齢者を見る目は必要だが、それはイリュージョンであって現実には存在しない。我々は、あくまでも目の前にいるひとりの利用者、高齢者と出会い、深く向きあっていくことで、そのひとりの人を通してその向こう側に時代や、歴史や、人間が見えてくるように思う。ひとりを深めることで普遍に至る道筋を歩むしかないと思う。研究者や行政がマスとして扱う高齢者をいくら考えても、一人の高齢者にも出会えないのではないだろうか。
 日本は少女が重宝される時代で、女性の20代が化石、墓石とイメージされてしまうほどジャリ文化に汚染されて、成熟というものがない。それは男性や年寄りに成熟の魅力が欠けていることにも大きな責任があるように思う。特に男性は、老賢者やもしくは老愚者としてのイメージを実現する役割をもっと意識してもいいように思う。
 使い捨ての時代だからこそ、捨て去られた老人ではなく、あらたな魅力を社会に提示していく老人の生き方や存在の仕方が求められるようにも感じる。私が出会った嫌われる高齢者の多くの方に、そうした奥深い人間の魅力や、苦悩が見て取れた。その存在こそが、多くの若者を真の意味で育て成熟へとむかわせる姿として映るからこそ、好き嫌いを超えて輝くように私には思える。


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