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「銀河の里」の物語・・・その多義性(その1)【2011.12】

施設長 宮澤 京子
 

 里では、ケアプラン会議等を通じて事例検討を重視してきた。あまのかわ通信等で、利用者とスタッフの関係のプロセスや、エピソードを「ものがたり」として伝えようともしている。こうした「里の物語」について、現時点でわかる範囲で考えてみたい。物語の結末はその始まりでは全くわからないし、プロセスの途中でも読み切れない。「出会い」で始まり、その関係性がさまざまな出来事や、時々の心の動きによって変化していくのであるから、最終的にどのようなストーリーになるかは、神のみぞ知るということになる。こうしたアプローチは介護計画、支援計画など計画にしばられた枠組みで人間や人生を扱おうという時代精神とは一線を画している。ところがそうした「里の物語」は曖昧すぎて明確な説明がしにくい。直感や知性で理解してくれる人もいるが、ほとんどの人には理解されがたい。我々自身もよくわかっているわけではない。ただ計画などよりも、物語の方が、人間や人生にリアルに迫れると体験的、直感的に感じ実践してきただけのことだ。


 何が里の物語なのか考えを巡らしていた矢先、今年の8月に河合俊雄著、『村上春樹の「物語」』が出版された。活動体としての銀河の里にとっては同志的存在である村上春樹の「1Q84」をテーマに、村上が描く世界(「物語」)を、深層心理学の視点から考察し、前近代・プレモダン・ポストモダンといった時代性のそれぞれの意識や無意識(夢)のありように迫り、その限界や可能性などに取り組んだ著作である。帯には、「物語を読むことで満足できる人もいれば、そのなぜかという問いに答えられないと満足できない人もいる。本書の試みは、そのなぜかという問いに答えようとするものである。」とあるように、鋭い視点と探求する姿勢に、仕事の深さを見せられる思いがする。村上春樹自身、その内容や結末を含め、小説を書き始めた時の自分と書き終えた時の自分とでは、何かが変化していると語っている。こうした変化は、里の事例に触れるなかでも深い次元での考察が進むと、しばしば起こる共時的なエピソードや、関係性の変化とともに自分自身のなかで何ものかが変容している実感と近いように思える。
 我々は、現場の専門職として、物語を読むことで満足して終われない。そのなぜかという問いに答える必要を感じていたところに、この本が出版された。村上作品を通じて物語の意味を解くように、我々も「里の物語」のなぜかという問いに答えていく必要があるだろう。そうした作業によって、里での「高齢者の発見や老いの価値の発信」ができるのだろう・・・地面を這いつくばって、悪戦苦闘し続けながら、いつかはなぜかとの問いに答えていきたい。
 村上がインタビューで比喩した建物の「地下二階」や「隠れた別の空間」の存在は、我々は現場で「異界」や「あの世とこの世」を自在に行き来する不思議な能力を持った認知症高齢者に日々体験させてもらい連れて行って貰っていてなじみ深い。河合俊雄氏の物語の読み解きにはほど遠いが、氏に倣って里の地上1階と地下1階を想定し検討してみたい。


地上1階:出会い
特養やグループホーム、デイサービスは大前提として、高齢者介護施設である。
 銀河の里の高齢者施設は、高齢者が疾患・疾病により、要支援や要介護(1〜5のランク)の介護認定を受けた高齢者が利用する施設である。つまり「介護」が第一義的に必要とされる状況にある高齢者のための施設である。この次元では物語は関係のない世界にあるとも言える。ケアマネージャーは食事・排泄・着脱・入浴・移動の5大介助を中心にアセスメントをし、ご本人が何で困っているのか、どこを介助して欲しいか、どんな生活を望んでいるのか、周囲のご家族などからも細かく要望や意見を聞き、現場では、第一義的な「介護」をサービスとして提供する。これがどの施設でもやっている基本である。一般には社会的に福祉現場は信頼度が低く、不正や、虐待など発生しやすいので、指導監査や情報公表・外部評価など受けることが強制、あるいは義務化されている。しかしそれらは、大半マニュアルや経理上の書類整備に終始する。マニュアルや書類を整えてそれらに時間を費やしたところで、利用者ひとりの人間にも人生にも迫ることはできない。また大半の介護施設が介護福祉士やヘルパーなどの有資格者を揃え、配置基準を充たし制度加算をとっている。しかし「介護」を特化し、介護作業を業務の中心にしていくと、多くの施設で見られる風景だが、まさに介護工場と化してしまう。
 認知症の高齢者のグループホームでは、徘徊・介護の抵抗・不潔行為・異食といった「問題行動」のみに焦点が当てられ、問題解決や対応のためのカンファレンスが頻繁に行われるが、どう見ても上から目線で「認知症になったらお終いだ」と、どこかで諦めていて、優しそうにふるまいながら馬鹿にしたり子ども扱いしたりが透けて見える。そうした本質的な感覚には極めて敏感なのが認知症の人の特徴でもあるので、たちまち追い込んでしまって手に負えなくなり、医療に丸投げするグループホームも多い。対応が「ものの扱い」のように操作的で、人格をも貶めている現状は少なくない。ケアという人間全体へのアプローチであるはずのことが、介護作業に狭小化されてそれが目的化される傾向は現場に常に働く。少し油断をすれば、現場はたちまちに介護工場に成り下がる。管理者は、よくよく気をつけなければ、高く掲げた理念などは全く通用せず、簡単に足下をすくわれる。


 銀河の里では、高く掲げる理念は最初から持たないことにしてきた。「何の御縁でしょうか、ともかくも、よろしくお頼み申します。」といったスタンスで始まる。あくまでも「介護」は出会いのための窓口であり、「介護」は入り口にすぎない。しかしそれは実に大切なとっかかりなので、丁寧に大切に儀式として成り立つくらいに身を正す必要がある。
 利用者にとってみれば、人生の最終章に至り「介護が必要」となって、自分が選択したい方向ではなかったところに介護施設はある。「なぜ、こんなところに?」は「なぜ私の人生はこういう運命に」という問いではないか。スタッフや入居者との関係は「なぜ、あなたと?」という問いから始まらざるをえない。


 そうしたことをストレートな言葉で問う、カナさん(仮名)のことを語りたい。カナさんは、特養ホームのショートスティを利用されている方だが、「何で私が、ここに連れてこられたかを教えて下さい。だれが、ここに連れてきたかを教えて下さい。」と、理不尽この上ない、憤懣やるかたなしと言った風で、事務所を訪れ、理路整然と、たたみかけるように問いかける。「家族さんにカナさんのことを2日間お願いされて、事務の瀬川というものが連れてきました。」スタッフが理由をどんなに伝えても、全く納得がいかないようで、「そんなことは聞いておりません。家族に電話をして下さい。家に帰らせて下さい。」と堂々巡りになる。さらに「私が望んでもいないのに、なぜここに入れられたのか、訳が知りたいのです。私は、おしっこを漏らすわけでもありません。暴力をふるってきかなくなる訳でもありません。家族を困らせることをした覚えもありません。なのになぜ、家族に捨てられるのか訳がわからないのです。」と・・・。ショートスティの度に毎回、そして1日に何度も繰り返されるこの質問は、カナさんにとって、理不尽な状況への訴えである。
 「Why・・・?」[Because・・・!」で了解できない深い、本質的な問いであるからこそ、「捨てられたわけではないんだよ、カナさん!解ってくれよ。」と答えるスタッフも、いっぱいいっぱいになり、疲れ果てる。


地下1階:関係性
 ある時「カナさんの旦那さんは、どんな方ですか?」と問いかけてみた。「いい人です。」「カナさんが、ご自分で選んで一緒になったのですか?」「いいえ、あの時代は、親が決めた人と一緒になるのが普通だったのです。」「カナさんの親さんは、カナさんにぴったりの、いい旦那さんを選んでくれて良かったですね。」「はい。・・・?」
 今の時代、伴侶者は自分で当然選ぶし、結婚するしないも選択できる。女は嫁に行くものと決められ、一生の伴侶者が親の手に委ねられていたことこそ理不尽に感じる。「何でこの時代に、この日本で、この家に、この親の元に生まれたのか」というところまで「なぜ」を突き詰めていくと、人生は、理不尽だらけを土台に積み上げられている。
 そんなことを考えながら質問する私にハナさんは、「なんで、今そんな、しょうもない質問をしてくるのですか」といった附に落ちない様子で、またいつもの質問を繰り返す。私は、「ハナさん、お嫁さんは、ハナさんにぴったりのサービスを選んでくれましたよ」と余裕で微笑みながら、「住み心地はいかがですか?」と調子に乗って尋ねてしまう。すると「ここがいいとか悪いとか、そういうことは関係ないのです。何で私がここに連れてこられたのかが、知りたいのです。」と、ぴしゃりやられた。「負けました、今日はこのくらいで勘弁して下さい。」と深々と頭を下げて退散しながら「次はどんな理不尽を問うてみようか」と頭をひねる私だった。
 現場では日常茶飯事のこうしたやりとりは、だいたいがお手上げだったり、難しい宿題になる。「介護施設」で介護される立場にあること自体が、理不尽なことなのだ。人間にとって自立における基本的な部分の障害の受容は、相当に苦しく生やさしいものではない。
 20年前、私が勤めていた特養ホームに怒りに固まったようなお婆さんがいた。家族に捨てられたと思った時から、一切喋らず、食べようともしなくなった。経管栄養になり、寝たきりの生活で、言葉をかけてもただ睨みつけられているようで、おむつ交換をしたり入浴介助の時に、作業で関わるだけだった。その方は、私の夜勤の日に、深夜、急変し、私の腕の中で息を引き取った。私にとってその死は死の怖さというより、「恨み・怒り」という感情に向き合えなかった後悔で、その方のぬくもりとともにいまだに残り澱となっていた。銀河の里の特養ホームが開設するにあたって、その方のことを思い出し、「介護」だけの施設にはしたくないと強く思った。感情や思いというこころの次元が我々の現場の建物の地下1階にはあるはずだ。そこに降りていかないわけにはいかない。                つづく  
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