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ピアニスト逝く 〜最後まで自分らしく〜【2011.12】

特別養護老人ホーム 板垣 由紀子
 

 西野さん(仮名)は2年前、私がケアマネとして担当していた人だ。当時は市営住宅で二階に寝室があり、訪問で階段から転倒して一階で寝たきりの状態になているのを発見した。レスパイト的に里のショートステイに入り、普通に歩けるまで回復し、それから気まぐれ気味にデイサービスやショートステイを利用しながら一人暮らしを続けていた。
 先月、西野さんが肺ガンと診断され、11月28日から検査入院が決まっていた。その矢先、25日にケアマネの田代さんが訪問したところ、様態が急変しており、急遽里のショートステイに保護した。本人は来るのを抵抗したようで、特養に着いても車から降りようとしなかった。部屋には本人こだわりのサイドボード、ピンクの毛布もセットした。久々に会う西野さんはおしゃれな西野さんとはほど遠く、ひげが伸び、すっかりやせ細って別人のようだった。それでも「俺は帰る、絶対に帰る、帰さないなら自殺する。」ゴホゴホ咳しながらわめいている。「まずまず、暖かくしてたから中に入ろう。」と半ば強引に部屋に運んだ。部屋でも「俺は1人でやれるんだ。こんな所に何で連れてきた。」と迫る。「そのままだったら死んでしまうよ。」と言うと、「死んだっていいんだ。関係ないだろう。杖はどこだ。杖持ってきたか。」というので田代さんは杖をとりに車へ、その間に私が「西野さん、何で帰りたいの、何かあるの?」と声を掛けると、「やる事はいっぱいあるんだ。」こんな所に寝ている時間はない、そんな空気だった。好きなコーヒーを勧めるが、コップを持てない。やっと口にしてもむせてしまう。高橋看護師も様子を見に来てくれて、サーチだのバイタルだのという感じではなく「病人にされてしまいたくなくて、家にいようと気を張ってたんじゃないかな。」と理解して見守ってくれた。
 杖が届き、帰るという気合いで立とうとするが、やはり無理で、何とか3人がかりで支えて座ってもらい夕食を進めた。しばらく食べてないはずだが「食べたくないんだよ。」と言う。そこに厨房の小野寺栄養士がきて「何なら食べれるの?」と聞いてくれる。「フライドチキン」。から揚げではだめらしい。「骨がついてないなら、帰りに買っていくからいい。」と言い張る。花巻にケンタッキーないよなどとやりとりしていると、小野寺が再びやってきて、「はい。フライドチキン」とスコーンつきで持ってきた。銀河の里の厨房は、ドラえもんのポケットを持ってるのか?びっくりした。西野さんも、早速フライドチキンに挑んでいる。
 そうしているところへ、戸来さんと米さんがかけつけた。なじみの顔に囲まれて暖かいものを口にして、少し気持ちがほぐれたのか、米さんとコンサートに出かけたことなど話しが弾みだした。あさっては里でギターのライブがある。それまで泊まってここから中部病院にいけばいいと伝えると、「俺は、楽譜を書かなきゃいけないんだよ。」と言う。
 「死んでもいい」などと投げやりな言葉を吐いていたが、やりたいことがある西野さんに、すこし安心した。さらに「それにしても、きかないケアマネだな〜」と田代さんに向ける。田代さんは苦笑いしている。戸来さんが「西野さん、どのケアマネ?」と振る。私も「三人ともきかなかったでしょ」と笑う。3代のケアマネが部屋に集まっていた。「男にはお母さんが必要なんだよ。いくつになってもな。きかなくなきゃ(強くなければ)つとまらない。」と話してくれたことがあった。当時、新米ケアマネで格闘する私を「お母さん」と呼んでくれるようになった。自由で気ままでわがままな西野さんには、きかない(厳しい)お母さんが必要なのだろう。
 ほっとした空気の中、西野さんが語りはじめた。「俺は、もう来年まで持たないと思う。」 私が「まだスペインクラブつれててもらってないじゃない」と返すと、「じゃ、明日か?いつ行く戸来さん。」と明日にでも行く勢いだ。「検査して、よくなったら行きましょう。だからまず今日は休んで。」と言うが、「板垣さん、時計いるか?」と、唐突に切り出す。「だってまだ使うでしょ。」と切り返す。「いらないなら瀬川さんか・・。米さんには指輪。」「指輪いっぱいもらったよ。」と米さん。次々と形見わけを語る「財布は戸来さん。茶箪笥は前川君にあげることにしてたから・・・。」再び時計の話に戻り「時計は・・・板垣さん・・・仕事に・・・・いらねなぁ〜」とつぶやいた。この言葉が私の中に響いた。
 翌日、体調を取り戻すかと思いきや、昨日の勢いは消えすっかり病人の顔になっていた食が進まない西野さんから「シュワシュワ飲みたい」のリクエストがあった。中屋さんが栄養つくものをと見繕ってきてくれた。「ひげ剃ろう〜」と声をかけた中屋さんに「そんなことより、紙とペン持ってきてほしい。」と頼んだ。形見分けの記録を作りたかったのだ。
 午後、小野寺栄養士が西野さんを見守っている中で急変した、たんが絡んで、意識が薄くなり、すぐに高橋看護師が吸引を始め救急車を手配した。吸引して、意識がはっきりしてきた西野さんが高橋さんの吸引する手を払いのけ、「そんなに無理にやったってだめなんだよ。」と西野さんらしい一言、「私の看護婦人生の中に間違いなく残る〜」と高橋看護師、周囲のスタッフも西野さんのわがままマイペースになんとかがんばってくれるだろうと信じていた。
 入院直後は、呼吸器をつけなければ危ない状況だったが、翌日は何とかしゃべれる状態にまで回復する。小野寺栄養士も面会し「今は点滴だけど、どんなものが食べれるか看護師さんと相談してきた。いろいろ考えてくれる人だったよ。」と伝えてくれた。私も含め退院後どうするかに思いを巡らせはじめていた。
 ところが翌朝、西野さんは息を引き取った。田代ケアマネ、戸来さんが見取った。晩年8年のお付き合いだったが、みんな業務を超えて親しくしてもらった。気ままで個人的な電話攻撃に晒されたけどかわいいところがあった。 今回のショートステイは、西野さんが別れを伝えにきてくれたように思う。
 西野さんは、私が銀河の里に来てまもなくの収穫祭で(入って4〜5日目のこと)デイサービスでピアノを弾いていた。プロの生の演奏には世界があって引きつけられた。それだけで銀河の里は「ただの福祉施設じゃない。」と感じさせた。デイホールのライブや、銀河で展開した居酒屋悠和の杜での演奏の夕べがあったり・・・・・、すでに介護度2だったが、ジャズピアノマン西野は活躍してくれた。階段から落ちて頭を打ったときもに「指が動くから大丈夫。」とピアニストの言葉だった。そして最後まで、立つことさえできない状況の中でも「楽譜を書く」と言っていた。
 初めて会ったときから、私がケアマネをしているときも、そして今回のショートでも、西野さんはわがままで、そのくせ律儀で、プロとしての誇りを曲げずに持ち続け、自分を貫く自由人であり続けてくれた。形見わけで私に時計をと言いながら「いらないか」と言うのは私への遺言。「お母さん、時に縛られるんじゃないぞ、オレみたいに自由に、そしてプロとして頑張れ。」そんなメッセージを感じる。いま西野さんの魂は更にきままにピアノを弾いて、楽譜をいじっているにちがいない。  
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