トップページ > あまのがわ通信 > 2011年11月号 研修の違和感再び

研修の違和感再び【2011.11】

特別養護老人ホーム 酒井 隆太郎
 

 介護業界に飛び込み一年半。駆け出しながら俺なりに利用者と真っ向勝負してきた。この間ヘルパー2級は取得したものの男36歳、異分野から挑戦者である。営業マンとしてズタボロになり、心身共にまいっていた渦中にあって、営業先であった銀河の里の雰囲気にどこか癒されるような何かを俺は感じたのだろう。「ここで働きたい」と相談してみた。「給料低いけど大丈夫ですか」と生活の心配をしてくれたがGOとなった。そして濃密な日々が始まった。利用者との出会い。いろいろな人生との出会い。感情や想いや個性の渦。そんななかで俺は人間として癒され蘇っていく自分を感じてきた。給料と生活を心配してもらったが、俺はこの手応えと、やりがいに充分満足であった。
  1年でサブリーダーを任され、中堅どころとして、研修にも優先的に参加させてもらっている。ところが実習や研修に行くと、銀河の里で日々感じている、ダイナミックな日常や、人間の奥深さからは遠くかけ離れた、つまらなさやくだらなさの中に押し込められるような感じにやられて、「なんだこりゃ」と強い違和感や怒りを感じることが多々ある。
  先日も事例検討会と題した研修に参加させてもらった。知識がないぶん好奇心が湧くのか、俺なりに勝手に想像する。いろいろな施設の出来事を職員や医療者、研究者でどのようにしていくのか考え発表するのかなぁとぼんやり考えながら研修に臨んだ。
 まず午前の部は、県内の特別養護老人ホームの事例で、若い男性の施設長さんと主任さんの発表だった。内容は題して「おむつはずし」。素人の俺はそのタイトルにも驚いたが、話しを聞きながら頭が混乱してきた。「利用者全員がおむつをはずして生活しましょう」と言っているのだが、「はっ!なんじゃそりゃ!!」とその趣旨というか意味が全く理解できない。俺はおむつやさんだったんだっけか。いつからおむつやさんになったのだろう。利用者がおむつをしているのはあれはいけないことだったんだろうか。俺は罪なことをしているんだろうか。グルグルしてきた。
 里の現場は俺にとって人間関係の場そのものだった。様々な感情と想いの渦のなかで、わがままや笑いや怒りなどを通じて個と個が出会う。人間の出会いのダイナミズムの中に俺自身も入り込んで生きている。売上げの成果のグラフに飲み込まれ、敵しかいない戦場のような中でズダボロになった俺を癒してくれたのは、里での利用者との出会いであり、関係だ。それが一気に引き戻されるような嫌な気持ちにさせられる。「おむつかよ!人間じゃねえのか!」そう叫びたくなった。人間のこころになによりまなざしが向けられなければ、それが一番大事なんじゃないのか、介護ってなんだ。
  研修では「おむつはずし」は全国的な取り組みだそうで、各施設のおむつ率が数字で表され全国の順位が発表されると言っている。そしてその発表した施設は「全国一位です」と発表しておりました。利用者全員が、おむつをはずした今は、利用者も職員も元気に楽しく過ごしています。と話しておりました。本当にそうなんだろうかと疑問に思いながら聞いていると、話しはそれで終わった。利用者の個々の話しは全く無かった。銀河の里のケース会議ではひとりの利用者に1時間以上もかけて話すのに比べると、事例ってなんだと疑問だけが残った。おむつはずし全国一位は、そこの利用者にとってどう映っているのだろう。せっかく人と人が出会える可能性のある場で、おむつはずしの対象にされただけなら利用者の哀れは甚だしいと悲しくなってしまった。そばに居て、心で接し、話しを聞くことが「おむつはずし」よりも先に人間としてケース(事例)と向きあう姿勢ではなかろうか。利用者とのコミュニケーションを語らず、「おむつはずし」で全国一位だけでは、利用者も職員も疲れはてるのではないだろうか。介護業界は不思議なところだ。  
 午後の事例は別の特養の発表で、題して「利用者の問題行動について」だった。タイトルからして不気味だがなんとか耐える。取り上げられたのはひとりの男性利用者だが、その問題行動とはなんと「ゴミを捨てる行為」だと言う。「それのどこが問題なんじゃ」と俺は思うが、不潔だとかいう理由らしい。それに職員が注意すると暴言や暴力になるので問題行動だと言っている。  
 俺がその場で感じたのは、この利用者は仕事がしたいんだろうなと言うことだった。施設に入る直前まで夫婦で仕事をしてきた方だ。おそらく引退できないのだろう。そのあたりの気持ちを汲みながらやりとりしたらどうなるんだろうと興味が湧く。ところが事例の展開の内容は全く違っていた。職員とどこかの大学教授が2人で発表したのだが、教授は利用者の病名を、これでもかと言わんばかりに並べ、その病気につて事細かく説明し、その対処を説明していく。当然、心に触れる言葉はなく、ひたすら説明が続いた。さらに、利用者の問題行動を1日観察して何回ゴミを捨てるのかをグラフで表していた。さすが教授だ。そういう分析と把握のアプローチには感心した。しかし、利用者の人生や心にはやはり話しは行かない。それは午前中と同類だった。結局その人はどうなったのだろうか、結果は分からず、何がどうなったのか俺には理解できなかった。おそらく利用者は、まだゴミを捨てているに違いない。  
 利用者にすればやむにやまれぬ気持ちが動いてこそ、「ゴミ捨て」という行為になっているにちがいない。そこにある気持ちに触れることも考慮もせず、やみくもに汚いから止めろでは、暴言や暴行も当たり前だろう。こちらが心を開かない限り相手も心を開かないのは介護の専門的知識ではなく世の中の常識ではないか。もっと言えば、その問題行動に向きあう自分自身が見えてこない限り、相手も見ることが出来ないと思う。どちらも見 えてないから暴言や暴行の方にいってしまう。
 「介護ってなんだ、施設ってなにやってんだ。」非常に寂しい感じがした。そんな寂しいことを人間がしなきゃいけないんだろうか。研修を通じて「俺は、いつまでも生きている限り人間でありたい。好きな事をやり、好きな物を食べ自由に暮らし過ごしたいと感じている。たとえ、病気になろうと、認知症になろうと「おむつ」を付けていようと、人間として生活をしていきたい。」俺は、このことを感じ続け、思い続けていきたい。


【施設長コメント】
  「日本老年行動科学会」岩手支部主催の事例検討会に参加した職員から、その内容と感想をきいて愕然とした。それは介護施設で「ケア」が語られるとき、いまだに介護の技術的アプローチにしか視点があてられていない実態をかいま見たからだ。
  20年以上前には「寝かせきり老人」を作らないために、介護現場での取り組み目標として「おむつはずし」を掲げる施設が多かった。介護保険がはじまり、介護の社会化ということで「自立支援介護」という概念が台頭してきた。そこで施設の目標はどう変わるかと期待したが、なんと今度は自立のための「おむつはずし」であった。個別支援計画が定期的に立てられるようになったものの、そこに記載される目標はまたしても「おむつはずし」があげられた。いまここに生きる利用者の個に焦点が当てられる可能性と期待をよそに、やはり狭義の介護技術の視点から、「排泄」がクローズアップされただけで、全体的存在として人間を理解するまなざしはどこにも現れず、結果、利用者個人は見えてこないままだ。
  施設は「排泄介助」という作業に対し、どのスタッフが介助しても差が出ないように「マニュアル」を作成する。また、「食事」や「入浴」・「移動」についても同様に、個別支援計画に介護のパーツが並べられて、これらも「マニュアル」化され、手順にそって処理される。計画に載ってくるのは、部分の集積であって、いくら部分を集めても全体は見えてこない。どう否定しても、ブロイラーが、卵を産む管として管理されるイメージと重なってしまう。介護現場になじんだ人にとってはそれが当たり前で気がつかないのだろうか。それを厚生労働省はじめ、研究機関や指導機関までが後押ししているようでは、全く未来は見えてこない。国を挙げて人間の尊厳を 踏みにじっている図ではないか。
  介護現場が「介護工場」であるなら、効率化された合理性でルーチン化されて完結してよしかも知れないが、ことは人間の尊厳と人生そのものに関わることである。これを由々しきことと捉えないほうが問題である。ましてや「生活の場」「暮らしの場」として、生活の主体である個人が終の棲家として過ごす「特養」にあっては、人間の存在とその人生を見据えない管理マニュアル感覚があってはならない。
  介護はまさに人間と人間がむき合う世界における実践に他ならない。その向き合いは、不特定多数のものでも刹那でもなく、生活や暮らしのなかで継続的に行われる濃密な関係を通じて行われる。そうした人間関係がなぜ活かされることなく、むしろそこを徹底して避けるかのようなマニュアル管理に終始し続けるのだろうか。「おむつ外しコンテスト」はそうした人間関係からの逃避に他ならない。  
 今回の事例検討を発表した特養では、50床全員のおむつはずしを達成したことで、岩手県社協から特別表彰を受け、全国一に輝いたと言うのだが、その利用者50人の人生はどこにあるのかと問いたい。おむつ外しコンテストでは、ひとりとして人生に触れることはあり得ないだろう。「介護保険」が始まって10数年が過ぎ、今後日本の介護現場は「工場化」の方向を歩んでいくのか、「暮らしの場」「終の棲家」として個々の人生に関わりうる現場を目指していくのか、県レベルの研修がこの体たらくではその未来には暗澹たるものを感じるが、日本人ひとりひとりはそれで良しとするのだろうか。
 唯一無二の個として生きている人間の語りは、関係のなかで語られるのであり、その語りは、極めて主観性が強いので、その内容を客観性や科学性を持った方法で分析・検討することは不可能である。そこで、語った当人の脈絡で理解しようとする姿勢が「事例性」であり、その語りを語り手の体験知として、その人の人生全体のなかで理解しようとするのが「事例性」の特徴である。人間は、他との「関係」を生きることによって、そこになんらかの「意味」を体験する生きものである。その意味の体験によって人生には様々な価値が生まれてくる。事例検討と言うからには、個人の物語とその価値を語らずして事例と言うべからずと言いたい。
 
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