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〜 研修:アートシーン 〜能「姥捨」【2011.11】

特別養護老人ホーム 中屋 なつき
 

 この曲は理事長が28歳の時初めて見た能の演目だったという。若き理事長も打たれるような感動に酔い、それから能と向き合い始めたという因縁の曲。その後27年間、理事長もこの曲にまみえることはなかったところ、今回の上演を知り、即座にチケットを入手した。ところが他の予定がすでに入っており、前川さんと私に観るようにと厳命が下った訳だ。銀河の里の歴史がそこから始まったような原点に我々は立つことになった。まさに継ぐべき使命を託された特別の思いを背景にした研修だったのだが、理事長、施設長の後を継ぐ世代の我々が、何を担い、どう生きていくのか問われる観曲でもあった。
  いつも能楽堂に入るとその不思議な静けさに他にはない心地になる。いざ曲が始まると、能面姿で登場するシテの異様な存在感にギョッとし、間延びしたセリフやお経のようなテンポの謡にチンプンカンプンとなり、いつの間にか眠ってしまって、目覚めた頃には何やらすでに事が済んだ後…といった感じだ。でも何か、どこか気になるあの体感、訳わかんないのに惹かれるのは何?
 能が銀河セミナーで取り上げられ、施設長が能の歴史・概要から舞台構成などを詳しく紹介してくれた。さらに「能の世界は、里で起こっていることと近い」「あの世を垣間見せてくれる、残痕の想いを共感させられる」と言うので妙に合点がいった。  
 夢幻能では、神・鬼・亡霊などの現実世界を超えた存在がシテ(主人公)として現れる。ワキ(旅人・旅の僧などが多い)は名前もなく、自分のことはあまり語らない。曲中もほとんどずっと舞台の端っこにジッと座ってるだけで、あぁそういえば居たんだった…という感じ。しかし、そんな無力なワキの(無力だからこその?!)絶対的な役割が“問う・聴く”ことにあると言われると、里の現場で利用者と向き合う姿勢に通じるモノがある!『ワキは何かをアドバイスすることもなく、ただ問うことによって、残痕の想いを晴らし、成仏を助ける。問いを発し、シテの語りを引き出したワキは、あとは何もせずただ座って、シテの物語を聞き続けるだけ。「何もしない」ことに全身全霊を込めてする』  
 このセミナーの後、私の関心はもっぱらワキに向いた。現場にいて、利用者のために何かができたと思うことはなく、むしろ、「もっとできることがあったんじゃないか」とばかり思う。でも、その方との出会いや関係を振り返ると、「何もできなかったけれど、共に居るってことだけは必死にやったよなぁ…」といつも思ってきた。『いつまでも浮かぶことができない魂の救済を求めて、再びこの世に出現するシテとそれをただ黙って受け止めることしかできない無力なワキ。その関係だからこそ、シテは残痕の想いを「語り」、あるいは「舞い」、そしてその行為を通して、最後には自分自身の力で残痕の想いを昇華させていくことができる』まさにワキは現場の私の位置だ。  

 今回研修で見る演目は「姨捨」。施設長からもらった現代語の解説文で、すんなりと作品世界に入ることができた。以下、簡単に紹介する。
  ところは月の名所信州更科の姨捨山。都からきた旅人の前にどこからともなく現れた里の女。旅人が姨捨の伝説の跡はどこかと問うところから物語は始まる。女は「我が心 慰めかねつ更科や 姨捨山に照る月を見て」と和歌に詠まれた、ゆかりの地に旅人を案内する。やがて女は「昇ってくる月とともに現れて、旅人の宴に舞をお目にかけましょう」と言う。それを聞いて旅人は「一体あなたは誰か」と問う。この姨捨山に住んでいる里の女。しかしその本体は、「恥づかしや、その古(いにしえ)も捨てられて、ただ一人この山に、澄む月の名の秋ごとに、執心の闇を晴らさんと、今宵現れ出でたり」と自分がその老女であることをほのめかし女は姿を消す。
  いよいよ山の嶺に秋の名月が昇ってくる。澄み渡る月光のもと、白衣を身にまとった老女が現れる。旅人の「何者か」の問いに、自分は先ほど姿を消した者だと言う。 昔、この更科で、両親を亡くし残された一人息子を不憫に思った伯母が、結婚もせず、この子を女手ひとつで育て、ひたすらに人生を捧げた。息子は成人し結婚するが、妻は伯母を快く思わない。伯母が年老いて目が不自由になると、なおさら目の敵にするようになる。夫は恩人である母親代わりの伯母への愛情を断ち切らざるを得なくなる。目の見えない伯母を山に連れて行くと「ここはお寺の前だからここで祈りなさい、あとで迎えに来るから」と立ち去る。老女はやがてだまされたことを知り、空しさのなか、ついに朽ち果てていく。  
 白衣の老女は都人たちの宴に加わり、今夜の月が秋の終わりであることを言って名残を惜しみ、草木を愛で、月にまつわる仏説を語り、舞を舞う。やがて夜が明け、月が沈んでいくように、もはや老女の姿は見えず、旅人は帰途に着く。ひとり残された老女は「姨捨山となりにける」。山々と、悠久の自然の時間だけが残される。  

  これを読むだけで、かなり感動させられる。無常というか孤独というか…、日本人特有の自然に対する信仰心みたいなのも感じられて…、カーン!
  そして、いざ公演当日、ふたを開けてみると、予想だにしない「体験」が待っていた。
  例のごとく何度もウトウトと眠りに誘われるのだが、囃子方の音やかけ声が高まるのにあわせて引き戻され、その度に、だんだんと空気が薄くなっていくように感じられ、頭が痛くなり、呼吸も苦しく、体が熱くなっていく。捨てられた老婆の情念をそっくり身体でしょってしまったって感じ?! 語られるセリフも、シテなのかワキなのか地謡なのか囃子方なのか、いったい今のこれは誰の声なんだ?と面食らう。情念が高ぶってくるほどに、もうすでに声でも音でも舞台ですらなくなって、地響きみたいなものが山全体から降ってくる!…観終わった後の何とも言えないボォ〜とした感じ、そして全身の重たい疲労感。大きな山をやっとこさっとこ登り切って、なんとか無事に降りてこられた…というような、登山に挑んだ後の感覚。まるで今まで奥深い山にいて、たった今やっと下界に降りてきました…というように能楽堂を出ると、体は重いし、歩くのに違和感がある。舗装された平らな道路は滑って転びそうになる感覚。異界 からすぐには巷に戻れない。
  帰りの新幹線でパンフレットに目を通す。「現行曲中最長のものですが、今までにそう長いと思った記憶はありません。曲自体の素晴らしさからかとも思います」とは、シテを演じた山本順之氏のコメントだが、私にとっては恐ろしく長く感じられた。姥捨山があるという更科の地へ、秋深まる月夜の世界へ連れて行かれたかのような、うんと遠くまで行って帰ってきた…、そういう凄まじい「体験」をした感じだった。地謡を務めた観世銕之丞氏も、「姨捨」は「心技体にあらゆる経験の積み重ねがないと到達出来得ない至難曲。故に能役者の生涯の目標となる最高峰の能」だと言う。そんな大曲にこちらも挑まされていたなんて後から知って(風邪ひきで万全じゃない体調だったし…)、ノックアウトは当然だった?! カーン!

  今回の曲は「身体で観る」という体験そのものだった。単に「演目が演じられる舞台」というよりは「何かがそこに現れてくる、体験が起こる、そういう関係性の場そのもの」なのだと、新たな発見があった。えらくしんどかったけど、特別なものだった。今その体験は、静寂な秋の山並みの中にいて、その風景をどこまでも広く眺めているような、心地良い静かな感覚として残っている。
 
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