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何が銀河の里なのか (その3) 【2011.11】

理事長 宮澤 健
 

 前回までの2回、銀河の里には独自性や異質性がかなりあると指摘してきた。一般的な介護職経験者が里に入ると相当な違和感があるようだし、里になじんだスタッフが他の施設や研修にいくと腹立たしいまでの違和感を感じてしまう。こうした違和感は自他を見つめる上でとても大事なことだと思うし、そこから何が里なのかも見えてくると思う。
  今回は少し遠回りになるが、我々現代人がどういう時代に生き、我々の地域社会はどんな問題を抱えているのかを大まかにとらえる作業を通じて、その違和感の根拠を探り、里の存在意義や方向性を、現代という時代や地域社会のありようの中から捉えてみたいと思う。時代をどう認識し、どういうコミットメントをしようとしているかを俯瞰することは、「何が里なのか」を見つめることにつながるように思う。
 そこで90年代の早い時期から近代科学の知に対して「臨床の知」「演劇的知」のあり方を論じてきた中村雄二郎に注目したい。今回はその著作、『魔女ランダ考』『臨床の知とはなにか』からの抜粋が大半になるが、里の位置づけを考える上で重要なところなので挙げてみた。
  余談だが、1998年に銀河の里の立ち上げの準備として、スイスのシュタイナー系の施設見学に行った折、片田舎のホテルで中村雄二郎と偶然一緒になった。それだけならなんの縁も無かったのだが、ホテル側が中村氏一行と我々の勘定を間違えて精算したので、ホテル側が両者を呼び再精算した。中村氏一行は、歌手のイルカさんとシュタイナー舞踏の役者の3人だった。その時名刺を交換し、日本に帰ってから、出版記念の講演会の案内をもらって参加すると、スイスの3人も同席していた。シュタイナーや芸術など多少怪しいことにお互い関心があっての出会いではあったろう。その時、まだ銀河の里は影も形もなく、里の実践と中村の思索がここまで深く関連し、里のありようの根拠として通底するなどとは思ってもいなかったが、これも縁なのだろう。
【近代科学の知の特徴と弊害】
  哲学者、中村雄二郎は、現代は近代の知、近代科学のパラダイムが世界を席巻した時代と捉えており、それに対して、臨床の知の重要性を指摘している。近代科学に代表される近代の知はガリレイの機械論に端を発し、デカルトの2元論にその哲学的な根拠を得て、人類史上最もパワフルで信頼される知として、あまりに強い説得力を持って、他に例がないほど人類の運命を大きく変えた。この二、三百年文句無しに人間の役に立ってきたために人間はそれを通さずには「現実」を見ることができなくなったとその威力を述べている。
  近代の知の特徴は普遍性と論理性と客観性という、自 分の説を論証して他人を説得するのに極めて好都合な3つの性質を統一して併せ持つことで異例の力を発揮することになったという。 近代の知、科学の知は事物を対象化して操作する方向 で、因果律に即して成り立っている。それは、意志的自我の自由と自然界や事物の対象化をもたらす大きな原理となり、人類に多くの変革をもたらし、近代を特別なものとして成立させた。ところがこうした大きな成果の一方で、認識する主体と認識される対象つまり、見る者と見られるものとを引き離して冷ややかに対立させ、自我の存続の基盤を失わせるとともに、他方では世界の人工化と自然の破壊につながったと言う。
 近代の知、近代科学によって人間の営みは飛躍的に変化し、合理的で客観的であることが正しいことであるような価値観が広がり、それは人間関係まで適応されようとする勢いがある。ところが、学問や知は詳細、精密にはなっていくものの、多様で変化する現実の縦走性を捉えることができなくなったと指摘する。近代の知はイメージやイメージ的全体性を失うと同時に、生きられる身体性と、世界に関わるものとしてのコスモロジカルなものを排除したという。
 その上で中村は、二つの問題を掲げる「一つは、科学的知の精緻な理論による対象の分析が事物の一種の解体であって、意識的自我はそれを真に統合する力を持ちえないという問題であり、もう一つは、近代の知がまさしく範型として、科学や学問のなかだけでなく、生活と文化の実にさまざまな領域にまで及んでいながら、私たちがなかなかそれと気がつかないという問題である。」と。
  こうした中村の指摘は福祉現場において直接的な問題であって他人事ではない。銀河の里が始まった年、骨折で入院された利用者をお見舞いに行ったことがある。病室を訪ねたくてナースセンターで名前を言うのだがピンとこない。骨折で入院したというと「ああ骨折ね骨折」と骨折で部屋が解った。何々さんという人間ではなく、骨折として解体された事物がそこにある体験をしてあきれたことがある。まさに近代の知のなせる技と言うべきだろう。日常にも猛威をふるう近代の知が人間関係を排除し切断してくるさまがみてとれる。見る者と見られるものの分断と冷ややかな対立は大半の施設が陥るありふれた光景ではないか。対象を解体し統合できない近代の知の罠にはまり、福祉施設の利用者は人間としてのまなざしから排除される危険に満ちている。
  小林秀雄は40年前の公演で、近代の知に対し、たかがこの二、三百年の歴史しか持たない浅智慧だと語っている。たましいを無いとしか捉えられない近代の知に「あるにきまってるじゃありませんか」と言い切る小林の知の深さはその時点で遙かに近代を超えていたのだろう。戦後の高度経済成長を超え、バブルを経てすでに夢破れた感が漂い、歪みとして社会に様々な問題が現れても、新たな方向や地平が見いだせないまま21世紀を迎え、世界も日本も地域社会も混迷を深め、未来を描けない状況に喘いでいるのが現状だろう。
 それでも地球規模で開発や経済の繁栄を求め続けなければならないのは、人類の宿命なのだろうか。
【近代の知の特徴とそれが排除したもの】
 中村は近代の知の特徴が排除したものとして3つをあげる。第一番には普遍性の原理が、他にない固有の場としてのコスモス、事物のコスモス的な有り様を示すコスモロジーを排除した。論理的一義性は単線的な因果論を説くのに適するが、現実は多義性を備え、生命体や人間的事象になるとその性格は強まるので現実を深くは捉えきれない。ふたつめとして論理性が排除したものは事物の多義性としてのシンボリズム(象徴性)だと言う。
  三つめの客観性は主体と客体の分離・断絶を前提としているので、事物の側からの働きかけつまり、受動的な能動がそこなわれるつまりパフォーマンスが排除されたと指摘する。
 中村は提言として、近代科学が排除したコスモロジー、シンボリズム、パフォーマンスの三つ、つまり「固有世界」と「事物の多義性」、「身体性を備えた行為」の3つを合わせて体現するのが「臨床の知」であるとして、それらを含んだ新たなパラダイムである、臨床の知、演劇的知、パトスの知、南型の知の考察を展開している。
  銀河の里のスタッフが研修や他の施設の実習で感じる違和感や、里に対する他からの違和感は、近代の知と臨床の知という依って立つパラダイムの違いからくる違和感だということがわかる。現場の経験を通して中村の考察に触れると、近代の知的枠組みの盲点とその弱点や、現実に現れる問題の根拠が生々しく実感として理解できる。
  次回は、遠回りついでに、臨床の知の特徴を銀河の里の実践に即しつつ考察を進めてみたい。(つづく)

【引用文献】
 『臨床の知とはなにか』中村雄二郎 岩波書店1992年
 『魔女ランダ考』中村雄二郎  岩波書店 1990年
 『小林秀雄公演記録』 新潮社
 『信ずることと考えること』S’49 小林秀雄講演(第2巻) 新潮CD 講演2004年
 
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