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個を超える世界‐タテタカコを通じて【2011.11】

施設長 宮澤 京子
 

【京都へ】
 しとしと雨の秋の京都、ライブハウス「SOULE CAFE」に向かう。会場は約50名ほどの客で歩くスペースもないほどぎっしり。でもほっこりとした雰囲気で、ドリンク片手に開演を待つ。
 「何で私は、ここにいるんだろう」と・・・自分の好奇心に困惑しながらも「どうしょもないなぁ」とにんまりと口元がほころんでくる。どうしても確かめずにはいられない、タテタカコに会わなければならなかった。その理由は、ここ数ヶ月、私の頭の中では彼女の歌がグルめいており、何かの折りに吹き出してきたり、心弾む自分の背景に彼女のリズムがあることにビックリしたり、軽い中毒症状が、日常生活に支障をもたらさない程度に起こっていたからだ。
 2004年のカンヌ映画祭で柳楽優弥(当時12歳)が史上最年少の主演男優優秀賞を受賞して話題になった『誰も知らない』の挿入歌「宝石」を作詞・作曲で歌っているのがタテタカコだ。NHKの「山田洋次監督が選ぶ名作100選」でこの映画が放映されたのを、夏休みで帰宅していた高校生の息子と一緒に観た。息子は16歳、親のひいき目で柳楽優弥にちょっと似ている。息子は見終わるとひと言「重いね」。こうした何気ない息子のひと言はいつも響くのだが、今度もこの映画への「こだわり」に火をつけた。
  まず『誰も知らない』のDVDを借りて4回立て続けに観たあげく、DVDを買ってしまった。さらに是枝監督の他の作品を3作ほど観て、柳楽優弥が出演しているDVDもホラーの一作を除いて全て観た。 そしてついにタテタカコの主題歌「宝石」に至った。これが極めつけだった。違和感がはじめにくる。曲のタイトルと歌詞が、イメージとは合わないというより予想外なのだ。例えば、『そら』というアルバムに納められているこの「宝石」・・・イメージは輝く美しさやファンタジーなのに、心からしみ出た黒い空に・・・と来る。最後は異臭を放った宝石 で結ばれる。どういう歌詞なんだ?


 心からしみでた黒い空に : 氷のように枯れた瞳で
 今夜も星は輝くだけ  : ぼくは大きくなっていく
  やがてくる春の光   :  だれもよせつけられない
  息をすいこんだ    :  異臭を放った宝石


  ところが、この映画のもつ重いテーマと、この曲とこの歌詞、そして歌声が絶妙なバランスで、観る者聞く者の胸にせまって締め付けてくる。私はタテタカコworldが知りたくなり、彼女のCDを網羅し、毎日聴き続けた。ざわざわとかきむしられるような感覚。渦巻くこころの闇、目を背けたい醜い己、耳をふさぎたくなる叫び、引き裂かれ感、・・・とにかく、こんなものが蠢いていたら、とてもじゃないけど落ち着いていられないし、苦しくなる、狂気に触れる感触。夫に聴かせると「俺たちの日常は否応なく荒れ狂っているの だから、音楽くらい和めるものがいいな。」と閉口していた・・・。それでも何曲かは、おどけたものや、しっとりした曲もあり、狂気ばかりじゃないのでホッとしたところもある。いずれにせよ、こんなにまで私のこころを揺さぶるタテタカコ。何でだろう、私は京都のライブハウスに向かわざるを得なかった。


【開演】
 ほっそりとした体型で中性的な顔立ち、ピュアだが圧倒される存在感を持った声。ピアノの前に座り、演奏が始まる前に大きく頭を後ろにのけぞらせ、瞑想をするかのように軽く目を閉じ、そして精霊が身体の中に入るのを待ってから、おもむろに鍵盤とともにうねり出す。何かの儀式に参加しているような錯覚に陥る。見開かれた瞳と、大きく開かれた口から真っ白い牙のような歯が目の前に迫り、飲み込まれそうになってのけぞってしまう。食うか食われるか、そんな勝負をかけられているようだ。叩きつけられる鍵盤、身体全体から発せられる狂気と叫びの渦・・・「これは何なんだ」と異次元の世界に引き込まれる。
 しかし曲が終わると、彼女はふぅーっとこちらの世界に戻って、やさしく笑みながら、とつとつとたわいもない話をする。カメムシを踏んじゃった臭い話、銭湯で男の子に間違えられた話、イタリアに行ってから、スパゲッティが食べられなくなった話など、客や会場に対する配慮があり柔らかい。ほんわりと天然?のあどけない表情と音楽に託された激しく荒れ狂う怒りや暗闇、とてつもない孤独と不安が、タテタカコのなかに同居しているのだろう。音楽という芸術表現がなければ、とても普通には生きていけないのではないかとさえ感じる。
 彼女がアンコールで歌った「しあわせのうた」に合わせて身体を揺らしているうちに、銀河の里の人たちの顔が次々浮かんできた。そして「あぁ一緒に生きている」と深い感慨が湧いてきて胸が熱くなった。
 この歌は人類皆が「しあわせ」にならなければ、本当のしあわせはないと願った宮沢賢治の精神に通じ、3.11の震災の「鎮魂」の歌にも聞こえる。私という小さな宇宙を持つ存在は、今、里のみんなと共に生きる「しあわせ」を実感している・・・タテタカコの魂に触れることは、目に見えない大切な関係性を、実感し刻印づけることだった。


【追求】
 実際に起こった‘子どもの置き去り’という社会的事件をきっかけに、監督が15年をかけて構想を練り上げたという映画『誰も知らない』。演出ノートによると監督は、ファンダメンタルな、母親像との乖離や、無縁社会への警鐘のストーリィとして描きたくなかったという。そして「この人(俳優)でなければ、全く違う作品になっただろう」とも言っている。監督、俳優歌手の妙なる出会いが作品として実を結んだ。
  それから是枝監督作品を漁ったが、レンタル店では古い作品はなく苦労した。次いで、柳楽優弥のその後の作品(『星になった少年』『包帯クラブ』『風味絶佳』等)をほぼ全て観た。・・・彼の活動は何年かブランクもあったようで心配だったが、最近「旅とチカラ」という番組に出ているのを偶然みて安心した。


【行き着いたタテタカコ】
 映画の世界を追いながら、最後に行き着いたタテタカコの歌。ここまで激しくこの映画に引きつけられてしまったのは、彼女のつくり出す異質な音楽の世界の魅力にあった。ピアノの弾き語りというスタイルで、圧倒的な世界を描き出す彼女の音楽は、ジャンルわけできない怪しさと不思議に満ちた超越の世界。そこにあるのは、社会的なメッセージなどとは無縁で、個人のキャラクターや主張なども超えた「存在」や「生命体」そのものとして立ち現れて迫ってくる何ものかである。タテタカコの‘音楽’は異界に繋がるツールとして、あちらの世界を垣間見せてくれるかのようだ。
 その魅力は、銀河の里でこの10年、認知症の高齢者と共に暮らして感じてきた、彼らの持つ不思議な魅力に通じている。映画を観た時点で、私はそのことを無意識的に感じてここまで深追いをしてきたのだろう。両者は個人という次元を超え、現実の境界さえも超え、時空を 、自在に行き来し、異界を開く力を持っている。それは本来人間が持っているプリミティブな魅力そのものにちがいない。現代の我々の社会では、それらは「異常」や「驚異」として受け取られがちであるが、実は次の時代を生きるエネルギーと、新たな価値をもたらしうる何かを秘めていると予感させられる。
 タテタカコは、摩訶不思議力?をもつ認知症高齢者同様、音楽を媒介として異界を顕現させるべく‘宿命’を帯びた存在として私には映る。夢幻能においてこの世で果たせなかった深い情念を、謡いや舞を通じて顕現し、夜が明けると、舞台はまるで何事もなかったかのような静けさが戻ってくるように、彼女の演奏も鍵盤から手が離れた瞬間に、異界の妖気は消え去る。認知症介護現場で日々、同様の魅力に惑わされてきたが故に、「能」にその通底するものを感じてきたが、タテタカコにもそれがあった。惹かれるわけである。


【つづいて】
 銀河の里が、他の福祉施設と違うのは、制度福祉を超えて、プレモダン(前近代)が特徴としている家畜化されていない「野生」や、「宗教性」「たましい」の視点を大切にしていることにある。里の暮らしや生活は、こうした「まなざし」が息づいている独特な場所だと思う。次回は夏に刊行された河合俊雄著『村上春樹の「物語」』から、そのあたりを考察してみたい。
 
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