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異界の持つリアリティ 「能」と介護現場の関係性【2011.10】

施設長 宮澤 京子
 

 今回は、「能」世界における異界の住人や精霊である「主人公:シテ」と、生きている「僧侶・旅人等:ワキ」との出会いから、「異人・異界」の持つリアリティを、銀河の里の在りようと重ねながら吟味したいと思う。今回の思索では自身が能楽師(ワキ方)である安田登氏の著者『異界を旅する能』から得ることが多かった。
 能は室町時代に観阿弥・世阿弥父子によって大成され受け継がれてきている芸能で、600年〜700年の歴史がある。能は明治維新まで「猿楽」と呼ばれ、能楽と呼ばれるようになったのは近年のことらしい。世阿弥は「猿」という文字を嫌って「申楽」に、示す偏を付け、「神学」と同じだという。(しかし、能は中国からやってきた「散楽」がもとで音が変化して「さるがく」となったという説が現在では有力である。)日本では「能」は、エンターテイメントというより神事という方がすっきり収まるような気がする。


【能への関心】
 以前から「能」を観る機会はあったが、特に意識して観るようになったのは、銀河の里がスタートし、グループホームで認知症方々の世界に触れるようになってからである。時空を縦横無尽に行き来する人、鬼を出したり、異界の住人とやりとりする人など、ある種、幽玄の世界が日々展開されるのを目の当たりにしながら、一般世間では触れ得ない不思議な世界の魅力に引き込まれていった。
 認知症の世界は、世間的な常識からみれば、異常で、変で、困った行動と見なされがちだが、そこには本来人間が持っていた、そして現代人が遠い彼方に捨て去って久しい、奥深い精神世界の地平を見せてくれているように思えた。そしてその感覚は、どこか能を観る感じととても似ていた。
 そう意識して能を観ると、複式夢幻能で構成されるシテの現れ方や、ワキの役割、橋がかりと鏡の間、能舞台などが、グループホームのありようや、スタッフの役割などともあまりにぴったりと合致しているのが不思議だった。さらに能の演目によっては、グループホームで起こってくることと同じような物語が展開し、能に描かれる異界の住人がそのままグループホームで活躍しているような感覚にさせられることもある。
 Eさんの事例はそういう意味でとても印象的なケースだった。グループホーム開設当初の入居者だったEさんは、「皆さんにご迷惑をかけるようなことは一切致しませんから、心配ご無用!」と侍のような潔い口上で語り、スタッフを横目に「ツン」とすまし、背筋を伸ばしていつもソファに座っている方だった。ある時、回想法の先生からグループホームの皆さんに「お茶とお菓子も用意してありますので、どうぞいらして下さい。」と「招待状」が渡された。Eさんはそれを見て険しい表情に一変し「こんなうまい話があるわけがない。騙されないように、私が行って話をつけてきます。」と、勇ましく乗り込んでいったこともあった。そうやって現実で頑張っていたEさんだったが、そのころのEさんは、胃潰瘍で何度も吐血を繰り返し、洗面器いっぱいの血を吐いて救急車で運ばれることが毎月のようにあった。
 ところが、ある頃から「これがあれば大丈夫!」と、ティッシュの箱を棒にくくりつけ、魔よけのように持ち歩くようになった。それからしばらくした深夜、満月の夜だった。Eさんはグループホームの外に出て山に向かい、赤土の土手をよじ登り始めた。夜勤者からの連絡で駆けつけ、「Eさん!」とよぶ私を振り向き、「見たなぁー」と声をはりあげた。満月に照らされた鬼の形相はEさんとは別の誰かのようだった。怖くてふるえが止まらず立ちつくしていると、ふっと力が抜けて「寒い」とうずくまるEさん・・・その時に肩を抱いて、やっと土手から降ろすことができた・・・。Eさんの世界に「異界」が表出したころから、なぜか吐血はぴたりとなくなった。そしてそれから約2年間、Eさんは異界の住人としての様々な活躍を見せるのだが、満月の夜の登場はまさに異界のデビューであった。
 当初、吐血を繰り返し、現実にしがみつくかのようなEさんと、満月の夜、突如鬼として登場して以降のEさんはまさに複式夢幻の前シテ後シテとして符合する。そして後シテこそその後グループホームで我々が出会った本体としてのEさんではなかったか。一方ワキとしてスタッフはEさんの本体とつきあうべく注目し続けた。立ち上げ初期にEさんに鍛えられ学んだものは多大なものがある。 この事例に限らず、能の構成のなかにグループホームのありようを発見することが多く、特にワキの役割とスタッフのありようには決定的なヒントがあると感じるようになった。


【「神話的時間」について】
 能舞台には、「橋掛かり」という鏡の間と舞台をつなぐ渡り廊下があり、生者であるワキが歩く時は、そこは登場のための装置だが、異界の住人であるシテが渡るときには、あの世とこの世とを繋ぐ通路になるという。
 私達は「人の時」を生きて、過去から現在そして未来という順行する相対的な時間にいるが、シテは「死者の時」を漂い、現在から過去へ過去へと遡行する時間にいる。通常は、位相の違うこの二つの時間が交差することはない。しかし、この位相の違う二者が出会うことを主題としているのが「夢幻能」であり、異界の住人であるシテを出現させるのがワキの存在であり役割だというところに意味深さを感じる。
 「夢幻能」では、前段でワキもシテも「現在」にいたはずなのに、後段ではワキの「夢」の中で時間に歪みが生じ、囃子と地謡が加わり、シテとワキの主語が曖昧になり、時の融合がおこる。この出会いの時を安田氏は、全く新しい時間「神話的時間」が出現とするという。出会いによって出現した「神話的時間」には、新たな生を生き直すエネルギーが満ちているという。
 また安田氏は、日本人の伝統は、形ではなく、むしろその精神性、象徴を伝え、形はどんどん変えていって、その芯に残る精神性のみを確かに継承していく。日本人の伝統は、能のような形のないものを受け継いでいく力に優れているという。
 現代では「異界」というと「怪談やホラー」になってしまい、極端に露出させた刺激で恐怖を煽りグロテスクにさえなってしまうが、夢幻能における幽霊や精霊は、面を着けて喜怒哀楽を極力抑え、動きにも抑制をきかせ、舞台演出は囃子と地謡と簡単な作り物だけで緊張感を作りだしている。エンターテイメント性をことごとく廃し、内面にのみに向かおうとする精神性と、象徴性に特化した表現によって、異界の住人がリアルに神々しく立ち現れるのではなかろうか。見る側にイメージがなければ、全く分からない見えない隠された世界でもある。隠されているがゆえに、観るたびに発見がある、能は何度も観たくなり、はまっていく。見る度に新たな発見の中で、感動とともに悟りにも似た心境にさせられ、まさに魂が潤うような豊かな「神話的な時間」をもたらす。こうした能の表現と構成には感 嘆させられる。こうした表現を日本の文化が育んだという事実に日本人として誇りを感じる。銀河の里は、こうした日本人の伝統的感覚を大事にしながら、現場に活かしていく方途を模索していきたいと考えている。


【夢幻能におけるシテとワキの関係】
 ここで注目したいのは、ワキの存在である。ワキがいなければ「夢幻能」は成り立たない。安田氏によると、ワキの役割は二つあるという。ひとつは見えないものを観客に「分からせる」ことであり、もう一つは、主役であるシテの恨みや情念を語らせ引きだし、それらを昇華・成仏へ導くという。
 ワキはシテの怨念・情念・無念さが大きく激しければ激しいほど、ただぽつねんとワキ柱のそばに座っているだけのようである。ここが重要なところである。ワキは基本的には無力な存在であり、その無力さを身に沁みて知っているものでなくてはならないのだという。ワキは修行中の僧であったり、旅人であったりする。シテはそのような無力さを身に沁みて知っている者を選び、その者に自らの本質を顕す。
 シテから選ばれなければワキにはなれない。誰もが選ばれる訳ではない。同時にワキは、現実を生き抜くためにシテと出会う必要がある。あの世を体感させてもらうことで、この世の生を新たに生き続けようとする境界性を持った存在でもある。このようなシテとワキの相互の関係は、現場の利用者とスタッフの関係性と照らしあわせていくととても興味深い。
 安田氏は、著書の中でピエロ・フェルッチの言葉として「場」とは何事かは起き得るけれど、何事かは起き得ないところだと引用している。その例として、パワースポットや聖地巡礼に出かけたからといって「異界」に触れることはないし、お正月やお盆を迎えたからといって自動的に先祖の霊にご対面できるわけではない。なぜなら「場」とは「関係性」だから、関係性が生じていないところには何も起こらないのだという。
 まさに現場のユニットやグループホームにそうした場の器が形成されるかどうかが重要で、その場を作るために配慮をし、エネルギーを使ってきたことを考えると、能の舞台とグループホームやユニットの舞台が相当な類似性をもっていることが感じ取れる。


【物語を紡ぐ関係性】
 介護現場はともすると「お世話する・される」の関係だけに固定化され、ルーチンワークの中で管理が蔓延化し、制度疲労やコミュニケーションに疲弊が生じてくる。介護現場の職員の大半が大きなストレスを抱え疲れ果てているというアンケートの結果がある。介護作業に終始することで、むしろ空いた時間ができるので職員同士の世間話になり、そこからイジメや足の引っ張りのような日本的な集団意識がうごめく。そうするとその対応にエネルギーの大半が費やされるといった非生産的な悪循環に陥ってしまいやすい。そのような状況に、新たな息吹を吹き込むためには、ハレ(晴れる・祓う)としての非日常、夢幻能でいう「神話的時間」は有効な活力をもたらす。
 ただ、どこの施設でも「祭り」や「行事」を頻繁に行っているのであるが、それらはイベントとして、形骸化したやらされ事としての「祭り」や行事に過ぎず、下手をすればただの騒がしいエンターテイメントになり、神事にはほど遠くなる。多くの施設が、オバタリアントークと、とってつけたようなメディカルトークに終始してはいないだろうか。人生の最終章にあって、死やあの世との親和性の深い利用者と、近しいところで語りを聴く位置にある介護職は、神話的時間の体験を通じて、多少深めのサイコロジカルトーク、スピリチュアルトークを専門性を基盤に語り合えるようでなくては、せっかくの現場の宝が、埋もれてしまい、ネコに小判になってはもったいない。この通信の紙面でも毎月語られているように、介護現場は日常的に時空を超えた感動の出会いが起こる舞台であると思う。  私達スタッフは、身に沁みて「無力」を実感し、謙虚に自己を見つめ、シテとして存在する高齢者の人生最終章に寄り添うワキでありたいと思う。
 「銀河の里」の生命線は、シテ(利用者)に選ばれたワキ(介護者)によって紡がれる「物語」が立ち上がってくるかどうかにある。それは我々の現場において安田氏が言う、何事かが起こる「場」(関係性)の成立が問われると同時に、そこにシテとしての利用者の言語や行動が意味あるものとして命を吹き込まれるかどうかにかかっていると思う。


【まとめとして】
 日本の中世という、この世を無常と捉える禅思想の揺籃を通じて、世阿弥という希有の天才の出現は、死者や亡霊達、異界の住人との絆と交流の物語形態を「能」として見事に完成させた。幸い能はその600年の伝統を引き継いで現代の我々も触れることができる。  
 科学主義一辺倒の現代において、現代人は便利で快適な生活を手には入れたものの、死者や異界の住人達が社会や生活からは遠く排除され、そうしたもの達との絆や、交流の儀式や礼儀もなくし、薄っぺらい物語を汲々として生きるしかない現状にある。我々現代人は相当単純で幼稚な精神性を生きるしかない時代に投げ込まれているのではないだろうか。
 老いや病い、死、障がいは中世の人々にとっては超越の次元の事柄だっただろう。近代以降、医学が多大な成果をあげ、我々は大いに安心を得たのではあるが、完全な克服はされてはいない。人間はどこまでも死にゆく存在であり、悲しみをまとった存在である。現代はそうした命の現実に立ち戻って考える必要性を持っている。そうでないと未来の地平は開かれないのではないか。
 我々が現場で出会う認知症高齢者はそうした課題を端的に投げかけてくれる。それを読み取り、物語り、癒しへとつないでいくありようを模索していきたい。


〈引用・参考文献〉
1)『異界を旅する能  ワキという存在』 安田登(能楽師)著  ちくま文庫
2)『能ナビ 誰も教えてくれなかった能の見方』 渡辺保 著  マガジンハウス
3)『夢幻能』田代慶一郎 著  朝日選書

 
 
能舞台の外観
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