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ノスタルジア こころが帰っていく場所【2011.09】

特別養護老人ホーム 前川 紗智子

 どうして人は、記憶し懐かしむんだろう。
 季節の節目などに、ふっと包まれる空気の匂いとともに、幼いころに聞いた歌や、子どもの頃、遊んでいた時の記憶がよみがえったり、ふとした瞬間に、思いもよらないところから、昔の自分に引き戻されたりする。それがずっと浸っていたくなるくらい心地よい記憶もあれば、苦い記憶だったりもする。どこか私は、そうやって昔に行ったり戻ったりしながら、今の位置を確認しつつ、生きている。


 3月11日の震災以降、生まれ育った実家が流されたこともあってか、そうした記憶への行ったり来たりが、私の中で特に甚だしくなった。


 波がさらっていった跡は、こんなにちっぽけな狭いところだったんだろうか…と唖然としてしまう程だった。あれもあったはず、これもあったはず、そういった記憶を全部詰め込んで、並べ直そうとすると、こんな空間には到底収まりきらないんじゃないだろうか?…でももちろんそんなはずはなくて、みんなちゃんとそこにあったはずなのだ。
 あって当たり前で、気に留めることもなかったものが、震災で失われたことで意識され、いたるところの記憶のふたが壊れたように、いろんなものがあふれ出してきて私の中で荒れ狂った。


 震災後半年、今、故郷の風景が消え去った後には、草が生い茂り、いろんなものがそこに存在していたことを知っているはずなのに、一瞬、はじめからこんな場所だったような気がしてしまう。それが自然なことと思うと同時に、ものすごく悔しくも思う。ここではない場所や、今ではない時間に、行ってしまいたい…、ここに居ながらここに居ない様な、そんな時空の裂け目に転落した感覚にしばしば陥る。


 懐かしみたい気持ちと忘れたくない気持ち、毎日の生活をただ慎ましやかに営む上ではとるにたらないようなそんな記憶への思いが、寝食さえ惜しまれるくらいに人を襲ってくるのは、一体何なんだろう。


 こんなノスタルジックモードの私が、なんとかこの時期を乗り越えられたのは、特養ホーム入居者の康子さん(仮名)との出会いが大きかった。康子さんは、私の母の実家と同じ地域の出身で、しかも、私の父方の大伯父のところへ嫁ぐ話もあったという、妙に縁のある方だ。
 花巻に移り住んでもう50年以上にもなるのに、康子さんは、かわらず故郷の訛りのままだ。初めて会って話した時、私の懐かしさは半端ではなかった。康子さんも「おねぇちゃんの言葉聞けば、懐かしい」と言って涙ぐむのだが、私も泣きたくなるくらい懐かしかった。
 「ここの山をみれば、昔を思い出す」と言っては、小さい頃の話を細かくしてくれる。康子さんの語る幼いころの話は、どれも、びっくりさせられたり感心したり、面白おかしかったりする。幼いころに、どんな風に育てられたか、おばあさんに言われた言葉が、康子さんの中で生き生きと残っている。
 きっと康子さんの思い浮かべている風景は、もう今は無いのだけれど、「おねぇちゃんにこれ話すために昨日夢にみだったんだね…」などと語ってくれる。康子さんの夢の風景はみずみずしく、生き生きとそこに感じられる。私は康子さんの夢の風景の中で安心した心地になり「今の私は、故郷の景色が目の前から無くなってしまって、ただびっくりしているだけだ。私の記憶の中にはしっかり残っているし、それを大事に思ってかみしめていれば、必ずまた蘇ってくる。」そう思えるようになった。


 康子さんが「(故郷に)帰ったらお母さんに聞いてみて。きっと、あぁあのきかねぇ人なっていわれる(笑)」というので、帰省した際に両親と母の実家を訪ね、祖母に康子さんのこと話した。すると話がいろいろ膨らんで、私の祖母、祖父も小さい時の話をしてくれ、それが大いに面白かった。夏のこの暑さで、祖母は体調を崩していたけど、康子さんの存在があって心配一色にならず、お互いに良い時間を過ごすことができた。
 帰り際、「さちこさんが来るづがら、これ、用意してだった」と祖母が、手のひらくらいの大きさのハンカチの包みを私によこした。訝しがる私に祖母は、ゆっくりした口調で、「あのね、これは、ずっとさちこさんのお母さんに返そうと思って、取っておいだものだったんだけど、サトエ(私の母)にやるより、さちこさんにやったほうがいいがど思って…」と話し始めた。なんと、それは、私の母が若い頃、就職して初めてお給料をいただいた際に、「少しだけど」と渡したお金らしい。封筒に入っているらしいそれをさらに丁寧にハンカチで、お弁当を包むみたいにぎっちり結んであった。


 その母も、昨年定年を迎えている。その歳月分の大切ななにかが一杯詰まったその包みを、母や、父、祖父、叔母が見守る中、私が祖母から受け取った。母は、「わぁ〜本当に少しだと思う」と笑っていたけど、それは照れ隠しで、本当はすごくうれしかったに違いない。母の代わりに私が泣いた。
 祖母は、その包みを渡しながら、懐かしそうにこんな話をしてくれた。「私が小さかったときね、私のおひっこさんは、お祭りに、3銭や5銭をくれた。そして、『タミコな、お金は、ぬくめでおけば、こっこなすがらな』って、そう言ったったの。」私が真剣に聞いていると、そう言われたことを信じて、大事に取っておいたら、お兄さんがいつのまにか使ってしまった話を挟んで笑わせた。そして「物を大事にできない人は、人も大事にできないからね」と、いつもの台詞を言った。
 祖母からもらったその包みは、永年ぬくめにぬくめられ、大事にされすぎて、お金以上のものになってしまっている。私は、恐れ多くて、まだそのハンカチ包みを開けられない。(開けてみたら入っていなかったなんてこともあり得るんじゃないかと密かに恐れたり期待したりしている。祖母はバナナを大事にしまいすぎて、房ごと真っ黒にしてしまうこともあった。)
 祖母から渡された、この包みと話の中のおひっこさんの言葉は、私の中で、お金への向き合い方に、何か劇的な変化をもたらしてくれたように思う。(とはいってもまだまだ私はなっていないが…。)祖母の渡してくれたお金は包まれてきた歳月にたくさんの“こっこ”をなしてくれた。
 「これ、ごめんだけど、ご苦労さんにしてもいい?」私の母は、物を捨てるときに必ずそう言う。これはきっと、祖母から受け継いだこころなんだろうなと思う。
 私は、この先、どんな“こっこ”をなしていけるんだろうか。


 特養で生き生きと昔を語る康子さんには、もう一面の姿がある。車いすを自走して、悲壮な顔をして事務所に現れ、「帰して下さい。私をここから出して下さい。」と懇願する姿は、また別人のようだ。でもそんな康子さんに私は、被災地や被災者に心を持っていかれて、沿岸から離れた花巻に居ることにヤキモキしている自分が重なった。
 康子さんと私は、互いに失ってしまった大切な何かを取り戻したいという気持ちと、どうにもならない現実の狭間で、昔を語ったり、聞いたりしながら、なんとか収めようとしているように思う。思い出し、語り、懐かしみながら、その時代を蘇らせ、体験し、浸っていくことで、今居る時と場所で、現実や異界との折り合いをつけようとしているのかもしれない。
 ノスタルジーに支配されてる自分を、非生産的だな…と思っていたけど、振り返ってみると、いろんな出会いと物語りに守られながら、内的な深い作業に誘われているようにも感じる。


 認知症の人たちは、そうした記憶や物語のイメージの使い方がさらにすごくて、ただ思い出したり語ったりというレベルを超え、体験として、実際にその時代、その場所を生きてしまう力がある。認知症になって、見当識や短期記憶が衰え、身の回りの現実はおぼつかなくなっても、その方の持っていた大切な記憶、自分のルーツと核は失われないばかりか、さらに鮮明で強固になっていく。それは人間が生き抜いていくためにも、同時に死に向きあうためにもすごく重要なことに違いないと、震災以降の自分自身のこころの揺れを通じてあらためて実感している。
 
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