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蘇る死者たちとの夜【2011.08】

施設長 宮澤 京子

 30年ほども前の事なのだが、富山の小さな温泉町での盆踊りの記憶が蘇る。20代だった私は、あでやかな浴衣を着付けてもらい、足袋に下駄で、すこし派手に念入りの化粧をして、うきうきした気分で夕暮れを待った。盆踊りの会場に向かう道は暗く、一本の懐中電灯に3人が寄り添って、草むらでうるさく鳴く虫の音に励まされながら砂利道を進んだ・・・ところが、やっと着いた会場は、いま歩いてきた道よりも暗いほどで、裸電球の薄赤い灯りがいくつかあるだけだった。そして、やぐらのまわりにうごめいている人の多さに驚いた。皆、笠をかぶり、聞くところによると、もの悲しいこの踊りが一晩中続くという。私の知っている「東京音頭」や「炭坑節」が流れることはなかった。華やかな司会も、勇壮な太鼓もなく、時折雑音が入るスピーカーの音が、ここが盆踊会場であることを印象づけていた・・・「何なんだ?」と、私は違和感と共に不思議な感覚に包まれた。誰かに尋ねてみたい気持ちもあったが、なんと問いかけていいのかわからない。仕方なく見よう見まねで、手足を動かして踊ったのだが、都会の感覚で浮かれていた自分が恥ずかしくも感じられた。そして、なぜか踊っているうちに涙がこぼれてきた。
 それから30年、この年になってやっと、あの富山の奥深い村での盆踊りの一夜の意味が解ってきたように感じる。あの世に行ってしまった精霊達との再会のひとときとして、繰り広げられる「盆踊り」の幻夢の世界は、明るすぎては成り立たないのだろうし、いくら哀音漂うといわれる東京音頭でも、そこでは似つかわしくはなかった。
 今や、形骸化を遙かに超えて、ただのイベントになった盆踊りは、あの世までも照らし出さんばかりのまばゆい照明の中で、踊るパフォーマンスと化した。そこにあの世からのご先祖様は立ち寄ることもできないだろうし、生者の我々が死者達を感じることも難しい。
 今思えば、富山の山村のあの盆踊りでは、迷悟の私には見えなかったが、死者達は蘇り、村人と共にいたに違いない。都会の感覚で浮かれて参加した私にさえ、あの世の精霊達と村人の交歓がどこかで伝わり、涙となって溢れたのではなかったか。
 時は流れ、今やどこに行ってもあのような幻夢の盆踊りを見ることは出来ないだろう・・・とても残念である。あれから時代は高度成長経済を経て、バブル崩壊を経験し、さらなる混迷の様相が拡がりつつある。我々現代人はあの世に行ってしまったご先祖様どころではなく、生きている老いた親とさえも充分関われないほどせわしい日常に喘いでいる。ましてやご先祖様に支えられて今を生きているという意識は持ちにくく、自分自身がご先祖様として敬われるなどということは、到底考えにくい時代になってしまった。
 せわしい現代人にとって、他人はうっとうしい存在でしかなく、ご先祖様は怪しいだけのものに成り下がってしまったのか。そして、何事も迅速に「一丁上がり」で済ませたい衝動に駆られ、こなすだけの人生をやっているのではないだろうか。


 今回の震災では、多くの犠牲者が出た。被災地の当事者のみならず、日本人全体が今、死者達と向きあうべき機会を迎えているのではなかろうか。そしてこの世だけでなく、あの世からの視点を豊かに持ち、死者達に支えられて生きていく日本の文化的価値を蘇らせる時の到来を期待する。
 現実世界に張り付いて、現実生活ばかりに目を向けていると、損得勘定や効率の物差しが優先され、つまらないケチな人間になりがちだ。人間らしさやリアリティの希薄な今の時代だからこそ、死者達と出会い精霊達と触れることの意味は大きい。


 そんなことをぼんやり考えていた矢先、山田太一の「異人たちの夏」の映画が放送されたので気になって見た。小説では何回か読んだし、昨年は演劇でも見たのだが、その度に結構考えさせられ、感動したが、映画は特に良かった。
 大まかにあらすじを紹介する。
 シナリオライターの原田が、締め切りの原稿に追われているところへ、取り壊し間際の同じマンションに住む若い女性がやってくる。寂しいので一緒に酒を飲まないかというのだが、仕事が忙しいと一旦断るも、いろいろあってそのうち男女の深い仲になる。
 一方で、原田は12歳の時に事故でなくした両親とタイムスリップしたかたちで出会う。
 下町に住む両親(30代)と子どもの原田(40代)の関係は、年齢的には逆転しているが、愛情と人情に溢れた、親子の会話が展開される。職人気質の親父さんと気っ風のいい母親、親父さんはビールで喉をうるおし、枝豆と冷奴をつまみにして、ステテコ姿で息子に「スイカ食いねぇ」といった具合だ。原田は童心に戻り懐かしいやら嬉しいやら、足繁く両親のもとに通うことになる。
 一方若い女性ケイとの関係では、離婚に至った元の妻とは全く違った親密なやりとりがあり、原田の冷えた心が癒されていく。しかし実は彼女は、原田が一旦断った後、自殺していて、すでに死者だったのだ。異人たちとのつきあいが深まっていくうち、原田は身体から生気が奪われ、瀕死の状態になっていく。
  同僚の間宮が原田のマンションを訪ねた時、ケイの正体が幽霊であること知り、引きずり込まれている死の世界から原田をこの世に連れ戻した。間宮は現実世界では起こってはいけない出来事として、「まったくどうかしていた」と異界に蓋をする。
 しかし原田は「どうかしていた」とは思わない。異人たちとの出会いによって、心から笑うこと、泣くこと、愛するという人間らしさを回復し、「ありがとう」のことばで異人たちと別れる。
 (河合隼雄対話集『こころの声を聞く』の中に、河合隼雄氏が山田太一氏との対談のあとに‘『異人たちとの夏』を読む’を掲載しており、これを合わせて読むとまさに納得させられる。また、映画もお薦めします。)


 銀河の里では、この1年間に高齢者8名の方達とのお別れがあった。そのうち3名の方は里でターミナルを希望され、貴重な時間を共にすごさせて頂き、それぞれ感動とともにスタッフの心に残った。「死」はお別れではあるかも知れないが「終わり」と捉える事は到底できない。その先こそが「始まり」のような実感もある。
 毎年お盆を迎える8月、里では「送り火」の儀式を行い、お別れした人々を偲び、祈りの機会を持っている。いつまでも生者と死者の魂が、時空を越えて出会える里でありたいと願う。
 
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