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謎解きに苦しむ日々【2011.07】

グループホーム第1 中村 綾乃

 新人の中村さんが、ミサさん(仮名)の「痛い」をテーマに新人スタッフとしての戸惑いを書いてくれた。それに対して先輩の山岡さんと理事長にコメントをお願いした。合わせて読んでもらいたい。


 「足が痛い」と言ってスタッフを呼ぶミサさん。足が痛いと言うので、足をさすると、「違う!」と怒られてしまう。違うのなら足をさすらなくてもいいのかと、さするのを止めるとまたすぐ「足が痛い」と訴えられる。そこでまた足をさすると「違う!」と怒られる。その繰り返しのなかで私は「何が違うんだよ。」と腹が立って、ミサさんと話すことが嫌になってしまった。当初私は、ミサさんの訴えを、言葉通りにしか受け止められず「足が痛い」と言われると、単純に足をさすることしかできなかった。
 ある日何人かスタッフがいる中で、ミサさんは私に向かって「足が痛い、足が痛い!」と繰り返し呼んでいた。ミサさんが私のことを呼んでいることはわかったが、ミサさんの「足が痛い」という訴えに全く対応できず悩み、「うるさい」とまで思い始めていた。私は、ミサさんに向きあう気持ちになれず、無視するしかなかった。他のスタッフがミサさんに一生懸命に話してくれたが、ミサさんは私を呼び続けた。私は無視し続けた。
 その日、グループホームのケアプラン会議があった。その中で、ミサさんの「足が痛い」は事実として足が痛いのではなく、誰かに側にいて欲しかったり、心が痛いなどの訴えであると気づかされた。「足が痛い」という訴えから始まり、話をしていくうちにミサさんが訴えたかったことは「山がきれい」ということだったという日もあった。最終的にたどり着く答えは様々でも、話の始まりは「足が痛い」から全部始まるので、本当に何を言いたいのかは話の流れで考えていくしかない。だから、一対一で向き合って最後まで話していかなければ、何を訴えたいのか永遠に分からないままになる。さらに、ただ話していたら良いという訳ではなく、言葉の裏の裏を考えながら、頭を使って話していかなければ会話は展開せず、つまらない会話にしかならないということも解った。
 会議直前のミサさんとのやりとりは、ミサさんは鋭く私を見抜いていて、表面上の言葉にとらわれて、単純に受け答えしていては、深く難しい部分で人と繋がっていけないということを私に伝え教えようとしていたのだと感じた。単純明快なだけの私が、この仕事を今後やっていけるか試そうとしてくれていたんだと、気がついた。
 会議の数日後、また「足が痛い」と呼び続ける日があった。ミサさんの気持ちが高ぶり、私の気持ちも高ぶり、お互いにいっぱいいっぱいになっていた。和室に横になってもらい、トイレに行く、このやりとりが1時間近く続いた。2人とも最後は疲れ果て、一緒に和室に横になった。ミサさんは「一緒に寝ましょうか?どうぞ」と私のために枕を半分空け、「大丈夫?疲れましたか?」と労いの言葉をかけてくれた。この直後、一緒にトイレに行き介助していると、突然、「友達だ」とミサさんは言った。すぐには何のことか分からず、少し考えて「誰が?私?」とようやく言葉になった。「そう」とミサさんは答えてくれた。ようやくグループホームのスタッフとしてミサさんに認めてもらえたのかなと嬉しくなり、涙が出そうになった。今でも、「足が痛い」と訴えられるとなんのことか分からないから、とりあえず足をさすってみる。そして予想通り「違う!」と言われる。以前の私と違うところは、「違うよね、それなら…」と側で寄り添ってみたり、トイレに行 ってみたり、場所を移動してみたり、「足」とは全く関係のない行動をとるようになったことだ。初めのうちは、ミサさんは足が痛いと言っているのに、私は何で関係ないことをしているんだろうと違和感もあった。けれども今では、周りの雰囲気を見ながら、トイレに行った時間を計算してみたり、あれかな、こうではないかな、考えながら行動している。外れることの方が多いが、前よりも考えながら会話しなければならない分、頭が柔軟になったような気がしている。謎かけのようなミサさんの言葉に、全然分からないといって投げ出したくなることもあるけれども、ミサさんが何を言いたいのか分かったときに、得られる感動がある。謎が一つ解けると嬉しくなるから続けていきたいと思っている。


【コメント1】山岡 睦
 ミサさんは平成20年4月に入居して3年目、92歳になる。入居の翌日の朝から、「膝が痛い」と訴えながら部屋とリビングを往復していた。歩いているけど痛いというので首をかしげながら受診した。しかし問診には「特に問題ありません」と言い、検査の所見は異常なしだった。一応、痛み止めの座薬が処方されたが、案の定、関係なかった。
 “痛み”の訴えで呼ばれれば、それが事実でないにせよスタッフとしては無視できない。一旦寄り添うと、語りが始まり、同じ話を繰り返しながらも、少しずつ展開していくが、結構果てしない時間を必要とした。日課や全体のことを考えれば苦しくなることもしばしばだが、そこはスタッフ同士でやりくりして、かなりどっかりと付き合ってきた。
 今思えば、入居当時のミサさんはグループホームで暮らすことを決心するためや、スタッフ一人一人と一緒に生きていく関係になるために“足が痛い”の訴えを必要としたのだろうと思える。
 一方で、家族さんが面会に来られた後は痛みの訴えがなくなったり、会話や作業にはまると痛いも消えた。逆に、不安や失敗があると、それに乗じて次第に痛みの訴えになったり、食事ができなくなることもあった。
 入居後、半年の間に、ミサさんの体調は急激に落ちていった。食べる量が減り、嚥下もうまくいかなくなった。9月半ばには熱が出て、転倒も続き、誤嚥性肺炎で入院。その後、年末まで4回の入退院を繰り返した。その頃の“痛み”はとにかく人を呼び、そばに居させるための“痛み”だった。その時の表情はものすごい迫力で、寄り添った人を離すまいと必死に腕を掴む。掴まれた腕も心も痛い。身体的にも、精神的にも、ミサさんも辛かったと思う。
 あまりの身体的な低下に、もうグループホームでは無理ではないか、年は越せないのではないかとあきらめかけたくらいだった。ところが、なんとか年を越し、思い切って出かけた初詣あたりから、急激な復活を成し遂げた。全身全霊で大きな山を越えたミサさんは全く別人のように変化した。ひと言で言えばそれを境に、霊力を身につけたと感じさせるようになった。
 ケース会議では、シャーマンが選ばれてかかる特別の病を「み病」と言うらしいが、まさにそれだと話題になった。確かにミサさんのこの変化を目撃したものならば、古代人でなくとも、ミサさんは特別な重い病を経てシャーマンとして生まれ変わったのだと言われれば心から納得してしまう。そのくらいのインパクトのある出来事だった。
 事実、それからというもの、ミサさんの言動にはシャーマンの重みと深さを持った不思議さが漂う。特にグループホームの抱えた問題や課題には敏感で、どこかでそれを見通していて、時と場所を的確について介入してくる。
 グループホームがピリピリしている雰囲気だと「足が痛いです」を使ってリビングの厳しい空気を打ち破ろうとして働きかけるし、チーム作りに苦労していると、育て方を指南してくれたりすることもあった。
 ミサさんが今、グループホームの中心にいてくれることは紛れもない事実なのだ。新人さんも我々もミサさんに触れ、ミサさんに鍛えられて育っていきたい。


【コメント2】ミサさんの存在 理事長 宮澤 健
 「痛いんです」という限定された言葉であらゆる世界を渡り歩くことのできる能力は病を乗り越えて帰ってきてから顕著になった。言葉が限定されているからこそ、かえって自在にイメージを乗せたり、あらゆる次元に働きかけていけるのだろう。
 スタッフが、まかり間違っても介護しようなどという浅 はかな気持ちで向かおうものなら、確実にすべることにな る。確信を持って言うが、そんな次元にミサさんは居ない。ミサさんはグループホーム全体を守り、支えるシャーマンとして存在している。その存在から降りてくる言葉は「痛い」に限定されているからこそ幅広く奥深い。その言葉の意味や指し示すことを、拾えるかどうかが我々に問われることになる。高見に立って「どうして欲しいのよ」などとはもってのほかなのだ。シャーマンとしての存在を侮ってはならない。
 「ありゃだめだわ」とミサさんが語ったことがある。さすがの「痛い」も通じなくて普通の言葉で語るしかなかったのだろうか。シャーマンにさじを投げられては救いようがない。
 次元の違う存在を見下し、バカにするしかない現代社会に我々は生きている。そんな社会ができあがって久しい。浅薄で奥行きも深みもない世界を汲々と生き延びていくしかない現状がある。そうした薄っぺらな次元を、ミサさんのような存在は打ち破ってくれる。
 わずかばかり開かれた異次元の隙間から我々は深淵の次元に触れ、体験をすることになる。現代では通常あり得 ないようなことが起こりうるのが「銀河の里」という場で あるように思う。
 今、ミサさんは必死でスタッフを育てようとしているように思えてならない。ミサさんの存在に触れながら、新人さんを先頭に我々はどのように育っていけるのだろう。
 
 
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