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実習を通じた思索 その3「鍵」【2011.03】

デイサービス 千枝 悠久
 

 現場実習を通じて湧いてきた義憤や疑問に戸惑い、「‘介護’がやりたいのではなく、‘介護福祉’がやりたい。だから福祉を学びたい」と「扉」を開く「鍵」を探りたい一心で語る私に、理事長は「それなら神話を学んだほうがいい」と中沢新一のカイエソバージュという本を渡してくれた。
 なんのことかといぶかりながらカイエソバージュ第1巻『人類最古の哲学』を読んだ。全く違った地域で生み出された神話の中にも深い共通性があり、“人間が蓄積してきた知恵と知性が、神話には保存されている”と言う。神話の世界では、自然と人間は一つのものであった。
 ところがなかなか「鍵」には繋がってこない。しかしながら、違うものの中に共通性が見いだされることと、違うものとして捉えているもの同士の間の「扉」を開くこと、どこか似ているものを感じ、カイエソバージュの第2巻から第5巻まで続けて読んでみた。その中で出会ったのが「対称性」という考え方であった。神話は、この「対称性」の考え方そのものであるという。
 「対称性」とは、端的に言うと「分類上ちがうものの間に深い共通性のあることを見出す能力」である。これは、ただ単に2つのもののここそこが似ているというのではなく、深いところで一つであることを見出す能力である。例としては、北アメリカのトンプソン・インディアン神話で、若者が山羊と結婚する話しが紹介されていた。若者は山羊と結婚することによって山羊の世界に入っていくことになる。そのことによって、山羊の心を知り、山羊も自分たちとまったく人間と同じであることを理解できるという。
 話は、どんどん現実から離れ、「鍵」を探す旅からもはるかに遠ざかっているようにも思えた。けれども、ここで「対称性」という考え方を、山羊と人間の関係ではなく、人と人との関係に変換して考えてみよう。私の実習中の経験は、「職員」・「実習生」・「入居者」というように隔てられたものがあり、その隔たりや分断の強さを扉として私は感じて辛かったのだ。一見隔てられているものに共通性を見出すにとどまらず、その奥では一体となっているという「対称性」の見方は全く働いていない。
 「対称性」によって、人と人とが向かい合うとき、自分と相手は深いところで共通性に抱かれ一体化する。それはまるで、合わせ鏡を覗き込むかのようである。有限であるはずの物の間に生まれる無限。そこに映っているのは「私」であるのだが「私」ではないようでもある。合わせ鏡の奥、解けあっているところでは、当然「職員」・「実習生」・「入居者」などという区別は消えてしまう。 第3巻『愛と経済のロゴス』では、経済の仕組みを捉えるため、交換・贈与・純粋贈与という3つの概念が紹介されている。交換とは心の一部を物質化し、心を物と等価であるものとして扱う。貨幣による交換もこれに含まれ、現代社会の中で最も多く行われている。
 贈与とは、心の一部を物に乗せることである。心と物は等価ではなく、心が返されることを求めるため、反対贈与を求める。純粋贈与は、物質化されないものであり、そこには贈った、与えられたという意識すらない。“神様がくれた”とか“自然の恵み”と表現されるようなものがこれである。
 実習を終えてクラスの討議で、「‘ありがとう’と言われたことで信頼されていると感じた」という話しがでた。それに対して、「‘ありがとう’は社交辞令ではないか」という意見がでた。こうしたことも純粋贈与の範疇では物を超え、言葉さえ必要なくなっていく。
 交換についても贈与についても、いま実際にあるモノを使うため、生産というのは、本当は行われていない。何かを使ってものをつくるという行為には必ず交換もしくは贈与の行為が含まれている。そのため、純粋に生産が行われるのは、純粋贈与があったときだけだという。
 現代社会は、交換と贈与の原理でも、特に交換の原理にばかり囚われていて、純粋贈与が遠くなってしまった社会といえるかもしれない。交換は、心の一部をモノに換えてしまうことで、円滑に行うことが可能になる。そこに心があることが、あまり意識されなくなることで、交換する者の間ではしがらみや排他的関係というのは生まれにくくなり、ある意味誰もが平等になった。
 ところが、その結果、人それぞれで違うはずの感情や想いといったものまで簡単に同質化されてしまう。実習で入居者の想いについて話した際、「それは高齢者なら誰もが思うことだ。」と職員に軽く扱われたことが思い出される。想いは軽く扱われ、産み出されるものが少ない「安全」という狭い枠の中で、暮らさざるをえない実態があった。実習での開くことのない重い「扉」を感じた経験も、純粋贈与が全く忘れ去られた状況だったと考えると納得がいく。
 向かい合い、解けあうところまで行き着こうとすれば、純粋贈与は遠くにあるものではなくなるだろう。これは、私が里の人たちと触れ合って感じたことでもある。里で暮らす人達との触れ合いは、まず向かい合うことから始まる。“背中を向けたまま”ということがない。真っ直ぐに向かい合うと様々なことが起こる。キツいお言葉を頂くこともあれば、会ってまもなく「あなた大好きよ」と言われることもあった。そういったなかで、私の感情は揺さ振られ続ける。そして、出会ったことのない私自身の感情と出会う。笑顔とも泣き顔ともいえないような、それでいて穏やかな表情をしている自分に気づく。そうした時間は意識せずに自然と、私自身を見つめることになっている。このような経験は、向かい合うことによって、どこかから贈られてきた純粋贈与と言えるだろう。
 カイエソバージュの中でも紹介されていたが、仏教では純粋贈与である布施を行おうとするものを菩薩と呼ぶのだという。菩薩というのはなじみのない遠くにあるイメージだったが、里で暮らす人達は、菩薩なのだと思うと納得できる気がする。
 こうして見えてきた現時点での私なりの「鍵」について考えをまとめてみよう。まず、スタート地点は、そこに共通性があることを認識し、向かい合うことからだ。別次元から見おろしているようでは、合わせ鏡の奥を見ることはできない。向かい合い、解けあう世界では「扉」は開かれ、無数の純粋贈与が生まれてくる。違うもの同士が触れ合うことで生まれる「不安」という名の「錠」は、「対称性」という「鍵」で開けることができるのではないだろうか。
 こうして「鍵」がみえてきたのだが、確固としたエビデンス(根拠)はない。学校で学んだ介護の知識や技術というのは、常にエビデンス(根拠)が求められ、曖昧なものは許されない。けれども、人と人とが向き合った時に生まれるものは合わせ鏡の無限であって、そこには根拠を求めにくいものの入る余地がいくらでもあるのではないだろうか。そういったものがあることを認め、そこから生み出されるものを捉えるためにこそ、実践がある。
 私が、里で暮らす人達と触れ合って感じたことも、実践の一つだ。「対称性」という考え方のもとに、実践の中から生まれてくるものがあり、それが神話のような物語を生成し、輝きを放つ。
 神話の話に触れ、「対称性」の考え方を知ることで、これまで学んできたエビデンスばかりを重視したケアに対する疑問はより強いものになった。最近ではナラティヴケアという概念も提唱されていて、一人一人の物語(ナラティヴ)を重視しようとするケアが模索されている。科学的根拠も重要ではあるが、人にはそれぞれ自分自身の物語があるため、根拠を基にしたケアだけでは個々の思いを満たすことができないこともある。「対称性」によって向かい合うことで、個々の物語の生成と理解にも繋がっていくように思う。
 実習で開かれることのない「扉」を感じて始まった私の思索は、神話の持つ知恵である「対称性」という「鍵」を得ることになった。不安ばかりの実習で、なにも得ることができなかったのだが、その後、果てしない思索の旅に出てしまったような気がする。介護という行為は、人間の深い部分に触れざるをえないことであるから、この思索の旅には大切な意味があると信じたい。少々やっかいで理屈っぽくなってしまったが…。 
 
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