トップページ > あまのがわ通信 > 2011年2月号 育つと言うこと


育つと言うこと【2011.02】

施設長補佐 戸來 淳博
 

 銀河の里に特養が開設して2年を過ぎようとしている。この間、立ち上げに苦闘してきた。今までにない悪戦苦闘だったと思う。銀河の里に必要なのは「人」だと思う。何よりも人が重要なのだが、その人がいないというのが苦闘の中身だ。つまりどんな人でもいいというわけにはいかない、誰でもいいわけではない。むしろ選りすぐりのセンスと資質を持ち、情熱に満ちた優秀な人材が欲しいのだが、そういう人はほとんどいないと言う現状がある。特養のスタートは、今思えば、ユニットケアの意味さえ理解できない、そういうことに興味も関心もない人が大半といったなかでの始まりだった。
 介護現場では集団介護の管理と支配が基本で、人間に対する処理と扱いが荒れ狂う。そこを考えようと言うと「ストレスになる」と言われ、教えようとすると反発がきた。結果利用者の個性も人生も見えてこない。利用者が作業をされる対象としてしか存在できない状況が続くのはいたたまれないものがあった。
 二年目は初年度の反省もふまえ、新卒や介護の未経験者の職員を受け入れ、集団介護の経験者の意識を変えるよりは、まっさらの人が育ちやすいのではないかという期待を込めた。これはいくらか功を奏したのだがそれでも達成率は30パーセント程度だろうか。
 介護作業は誰でもやれるようにはなるのだが、問題はその先にある。人間や人生への深いまなざしが持てるかどうかが決め手になってくる。その上でコミュニケーション能力や危機管理能力など、統合的な人間の能力が求められる。
  初年度の大混乱を越え、二年目の期待の新人のひとりに三浦君がいた。専門学校卒業の20歳。やや小柄だがイケメンで意見もしっかり言えるので期待は高かった。ところが、現場に入ってみるとなんだこりゃの連続だった。
 グループホームの利用者コラさん(仮名)は、職員の人柄で自分の運命が決まるとばかり、新人をみる目は鋭い。そのコラさんが三浦君を評して言ったのは「育たねんでねえっか」だった。人間の器を見抜く目利きのコラさんに言わせると、彼は若さの勢いはあるものの、軽薄で、内容に深みがないと言うわけだ。
 やる気も、情熱もあるので、なんとか育って欲しいと個人的に飲みに誘ったら、「キャバクラですか」などと言うので、クビを絞めたくなる感じだった。現場でもいろいろ食い違うので話しをするのも嫌になるほどだった。


 どうなるんだろうかと不安だったが、そこに利用者龍治さん(仮名)86歳、元は会社の幹部で、社員教育の担当者だったという方の活躍があった。その龍治さんが三浦君をとらえた。龍治さんはナースコールの帝王だった。一日中なん100回と部屋からコールがあるため、「俺はあんたの奴隷じゃない」などと暴言を吐く職員もいたらしい。ナースコールの線を引き抜く暴挙も行われていたという。そんな中で、三浦君は呼ばれる度に部屋に行った。「おまえじゃだめだ」とさらにナースコールを鳴らすなど結構きつかった。傷つきながらも、へこたれないでアプローチを繰り返していった。
 この頃、「どうすればいいでしょう」と困惑する三浦君に、理事長は「龍治さんがあなたを育ててくれるんだ。食らいついて いけ」と言った。そして「自分の死期が近いことを知っていて、その寂しさや怖さから、そうやってあがいているんじゃないんだろうか」と話し合っている。
 三浦君はどこか龍治さんのことが好きだったのか、罵倒されたり、ときには殴られたりしながらも、食らいついていった。やがて龍治さんも、頼りにならない若輩者の三浦君を、小馬鹿にしながらも受け入れてくれるようになった。
 月日が過ぎるにしたがって、二人の関係は深まっていった。「いいか、俺がおまえを育ててやるからな」とはっきり語ったのである。次第に龍治さんも、三浦君に甘えたり、弱音を吐いたりしてくれるようになる。そして11月の通信の三浦君の記事のとおり、「自分の入る墓を見ておきたい」という龍治さんと嵐の墓参りが実現したのだった。
 その墓参りから一ヶ月が過ぎた頃、急に様態を崩し救急車で入院となった。三浦君は救急車の後を追って車で病院に行った。その後も病状は予断を許さず、2ヶ月の入院が続いた。三浦君は元気が無く、「龍治さんがいないとだめだ」と理事長にこぼしたという。病院のお見舞いに毎週行っていたが、病状は一進一退を繰り返していた。
 もしかしたらもう戻ってこれないかも知れないと不安がつのっていた矢先、娘さんから退院の許可がでたという連絡が入った。龍治さん本人も、御家族も退院を望んでいたので、この期を逃さないように病院側も「今しかない」との判断があったのだろう。
 急遽の退院に、ちょうどその日、休みだった三浦君が迎えに行くことになった。迎えを待ちながら「来るのは戸來さんじゃないか?」と言う娘さんに、「いや三浦ダイコンが来る!」と確信に満ちて語っていたそうだ。
 ギリギリの状態ながら銀河の里に戻ってきてくれた。しかし龍治さんの食事は進まなかった。「もう食べたくない」「体が痛い」とベットで寝ている時間が長かった。このままではまた入院になるので、なんとか食べてもらえるよう祈るような気持ちだった。
 その日の夕方、三浦君が、辛い表情で話しかけてきた。「龍治さんの退院祝いをしたいんですけど、食事があまり進まなくて、無理やり口に入れても、食べさせられている感じだし、どうしたらいいのか解らない」と悩んでいる。しかし、今の状態で栄養が摂れないと、死と直結してくる。
 「何か、食べたい!っていってくれるもの、おいしいって言ってくれるものを用意しよう。龍治さんに『おいしい!』って言わせたいだろ。まだここでやっていきたいだろ!」と私もハッパをかける。そこにいた前川さんが「よく“高権(たかごん)ラーメン”が食べたいって言ってたよね。」と言う。三浦君は「・・・ちょっと色々用意してみます。」と事務所を出て行った。彼はその足で高権ラーメンに向かい、「ラーメンを作ってほしい。どうしても食べさせたい人がいる」とお店の人に頼んだのだった。もちろん高権ラーメンでもそんな注文はいままでなかっただろう。彼は、食事が摂れなくなった入居者さんがいて、その人は以前から高権のラーメンをもう一度食べてみたいと言っていた事を話した。すると高権の親父さんは、そういうことかと「解った、お金はいらないから持って行け!」とすぐに準備をしてくれた。
 親父さんの粋な計らいに感激しながらお礼を言って立ち去ろうとすると、親父さんは「うちのラーメンを食べたいと言ってくれたその人の名前を教えてくれないか。」と言う。「龍治さんという人です。」と伝えると、「おお龍治さんか!よく知っている」と言うのでその繋がりに驚き再び感動した。
 こうして念願の高権ラーメンが届けられ、退院祝いが催された。三浦君がゆでた高権ラーメンが目の前に運ばれ「退院おめでとう。」の声が上がる。龍治さんは言葉はないが、手でありがとうの仕草。三浦君が手を伸ばすと握手をしてくれた。そして皆が注目する中、自分で箸を持ち、麺を口に運んでくれたではないか。周りからどよめきがあがる中、龍治さんは無言で頑張っている。二口目を口に入れたいのだが、力がなく麺を持ち上げられない。三浦君がどんぶりを持って手伝うと、一口、一口ゆっくりと食べてくれる。そして無言のまま、目を閉じ首を横に振る。そこで「俺も食べていい?」と聞くと龍治さんはうなずく。一口たべて「うまい!!」と叫ぶ。その時だった、ずっと無言だった龍治さんが三浦君に向かって「うまいか!!!!?」と迫力の声と形相で声を発した。凄い迫力だった。


 翌日も龍治さんは食事を摂れないでいた。三浦君はベットの横で食事をとっていた。「隣で自分が食べたら、食べてくれるかと思って・・・。」と残念そう。寝ている時間が多くなり、口に入れれば飲み込んでくれるのだがおいしいとは言ってくれない。「どうしていいかわからない・・・」とまた悩んでいた。
 その日の夕方、笑顔満面で「龍治さん、食べてくれました。」と伝えに来た。「もぉ〜、食べたくないよぉ〜」と奥さんと娘さんの名前を呼んで甘えた感じで語ってくれたと言う。「そんなところも龍治さんらしくて嬉しいな。」と語る三浦君に、たくましさを感じた。
 翌日の昼、龍治さんの呼吸が荒くなり再入院となった。入院の数時間後、急変の連絡が入り夕方亡くなられた。
 三浦君は病院にかけつけお別れをした。死の直前の4日前によくぞ退院して帰って来てくれたものだと思う。後から考えると、まさに三浦君の為に帰ってきてくれたとしか思えない。スタッフの「お帰り」の声かけにも、一切無言の龍治さんが、三浦君の名前を出したとたんに反応した。「俺がおまえを育ててやる」と明言していた龍治さんは彼になにかを伝える必要があったのだろう。三浦君は一生支え続けられるなにかを龍治さんから受け取ったはずだ。また、人生の最後に、育てるべき若者を得た龍治さんも幸せだったに違いない。
 葬儀には三浦君に参加してもらった。里の代表としてはちょっと若すぎて場違いではあったかも知れないが、ここは彼でしかあり得なかった。
 理事長は、銀河の里は本質的には「教育機関」だという。「我々は利用者からしか学べないのだ」とも。銀河の里では利用者を対象化して、介護を作業としてこなす非人間的な立場に立つのではなく、一人一人との関係性に真摯に向き合い、そこに起こってくるプロセスを丁寧に生きることが大切だと考えてきた。その中で、「生きる」と言うことを学び、人間や人生について発見したり、考えていく仕事をしていきたい。
 「面倒を見る」じゃなくて「学ぶんだ」というのだから、考えや、まなざしは既存の介護業界の常識とは真逆である。かなり異端に感じられるだろうが、この方向にしか未来への希望や夢は見いだし得ないと思う。今時の軽薄な少年を龍治さんが育ててくれた過程を目の当たりにしてきた。そこには三浦君にとって介護者になるためのイニシエーションがあったと思う。そして彼はこの先の人生の節々に、龍治さんが伝えてくれた大切なものをかみしめるのではないだろうか。
 
〒025-0013 岩手県花巻市幸田4−116−1
TEL:0198-32-1788 FAX:0198-32-1757
HP:http://www.ginganosato.com/
E-mail: