トップページ > あまのがわ通信 > 2011年1月号 銀河の里−特養の奮闘 その1 「対称性の論理」対「非対称性の論理」

銀河の里 − 特養の奮闘 その1
  「対称性の論理」対「非対称性の論理」 【2011.1】
理事長 宮澤 健

 一昨年4月、特養が開設してから、銀河の里はかなり危機的な状況に追い込まれた。10年前の開設当初から、銀河の里は高齢者施設でありながら「介護はしない、やってはならない」とどこかで叫んできたように思う。逆説的な言い回しだが、「介護はやらない、あくまで出会って生きるんだ」という思いを情念のよう持ってきたと思う。
 ところが特養開設で、入居者も職員も一度に大勢の大所帯を抱えて、状況は一変した。早い話人材不足なのだが、銀河の里の雰囲気や想いを持っていない人も大勢職員として現場に入らざるを得なかった。研修はしたのだが、簡単に伝わるものでもなかった。特に他の施設で数年の経験を積んできた女性の介護士は厳しいものがあった。
 開設当初から定時ぴったりに一斉に現場の仕事を上がれるのは驚きだった。そんなにやれているのかと思うが、ただ時間だから上がっているだけだった。利用者に軸が置かれているのではなく、時間にあわせているだけなので、当然、視点は作業に置かれる。作業を時間内こなすことが目的になってしまうと、そのとたんに利用者は消える。そのうち、皆で囲む食卓は、ショッカイ(食事介助)でしかなくなり、食事は、たんなる栄養摂取に陥る。人間にとって食事とはなにか、食卓を囲むとはなにかを問いたくなるような、機械的な乾いた時間がひたひたと銀河の里に押し寄せ、ユニットの場を蝕んでいった。
 システム、マニュアル、制度、プラン、操作といった管理が主流の世の中で、銀河の里では、人が暮らしのなかに生きていく場をつくろうと、田畑を耕し、米を作り、認知症の人と出会い、生きようとしてきた。介護は関わりの窓口として暮らしの中に偏在し、若いスタッフは介護という身体的接触を通じて、個人と出会い、創造的、発見的経験を積むことで、自身も育つ実感を得てきたはずだった。
 ところが介護が作業として、一丁上がりに処理されると、多次元に流動していく人と人の関係の世界から知性が抜け落ち、突然世界が失われる。これは里にとっても個人にとってもかなり危険なことで、一方的な管理と支配に色取られた非対称性の現実が固着すると、利用者と介護者の分断が永遠に繰り返されることになり、そこでは利用者もスタッフもともに個人の内的世界は消去されてしまう。
 そうなると、介護現場は小規模のユニットケアであろうが、まさに介護工場になってしまい、世界が存在しえないので、人間は消え、ショッカイ、ニュウヨクカイジョ、エイヨウセッシュなどが単に作業として無機的に繰りかえされるだけの無意味地獄に飲み込まれてしまう。 一方的に管理し支配しようとするのが非対称性の論理とするなら、自然も動物も人間も同じ位置にいて入れ替わり可能な思考が対称性の論理である。(アバウトな説明だが、詳しくは中沢新一のカイエソバージュシリーズ全5巻を参照されたし)
 非対称性の論理では、根底が操作と支配でできているので、現実対応は完璧になるだけに、対称性の論理で流動する心の居場所となる「場」や「世界」は曖昧すぎて蹴散らされてしまいがちだ。中沢新一は人間の心はこの非対称性と対称性の論理のバイロジックだと言っており、両方がうまく組み合わせられていくことが必要なのだが、対称性は現代社会では遙かに分が悪い。ましてや作業を効率よく的確に処理するには対称性の論理は邪魔扱いにされがちだ。
 個々が持つ世界や宇宙は存在するし、それは尊重されるべきだと思う。現場ではそれらが全く無視され抹殺されてしまうか、尊重され、息づくことで、人間の尊厳が守られているのかどうかが勝負になってくると思う。その意味で銀河の里では人間の尊厳を守る戦いを現場で展開しようとしてきたのだと思う。 芸術は対象性の論理そのものなので、研修で、演劇や音楽を中心に作品に触れる場を作っては来たのだが、現場では機械的な介護作業が繰り返されやすいのも現実だ。
 昨年、柳田邦男氏がALS患者の閉じこめ状態に対し、どう人間の尊厳を考えるかという番組がNHKで放映された。進行性に体の筋肉が衰えていき、寝たきりになるばかりか、喋ることもできなくなるので、わずかに動く筋肉を使って、センサーを通じてパソコン入力し、コミュニケーションをする。病が進むとセンサーも使えなくなり、自分の意志を全く外に伝えられない「完全閉じこめ状態」になる。それでも生きている意味はあるかどうかを患者自身にインタビューしているのだが、極限の状態において人間の尊厳を問うた興味深い番組だった。特に「取り巻きが良かったから、病を得ても自分の人生は幸福だった」という患者の言葉は、そばにいる介護者がいかに大事かを端的に伝えていて、昨年の新人研修でもこの記録を見たのだった。
 さらにALS関連の書物を読むと、究極のコミュニケーションとも言えるような取り組みが語られていて教えられることがたくさんあった。言葉は消え、何らかのサインさえ送れなくなったとしても、肌の色や、血色で体調や気分を理解しようとしており、発汗コミュニケーション等という発想もあった。
 それに比べて、我々の現場では、認知症や、多少の言語不自由はあってもコミュニケーション豊富な方々ばかりである。大いにやりとりをしようじゃないかと言いたいのだが、現実は難しい。ナースコールは無視され、それでも鳴らし続けると電源を切られる。仕方がないのでベッドを揺らして訴えるとさらに無視されたり、きつく叱られるといった具合だった。コミュニケーションを絶ち、支配し、コントロールに徹しようとする非対称性論理の人が世の中には圧倒的に大多数だ。「関わりをもっと大切に」などと言おうものなら「訳のわからないことをいう変なおじさん」とばかりねたまれる始末だった。
 こうした状態が、昨年の11月あたりまで続いて苦しんだのだが、そのころから徐々に各ユニットに、里らしい感じが生まれはじめる。次回からは特養の具体的な苦闘の惨状とそこからの復活を綴りたい。 
つづく
 
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