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一穂の重み【2010.10】
ワークステージ 佐々木 哲哉

 今年の稲刈りが終わった。
 猛暑の影響で、銀河の稲だけでなくどこも背丈が高くなり、ひどく倒伏した稲もたくさん見かけた。幸い、銀河の田んぼは去年より収量は増え、新しく導入したもう一台のコンバインとともに集中的に作業を進めることができた。
 その一方でどうしても気になることもあった。作業や安全面での都合上、畑班だけでなく他部署の職員の助けも借りながら、職員・利用者合わせて10数名の畑班のメンバー総出で田んぼに集まるのだが(機械化作業・担い手不足の現代農業ではあり得ない、あり余る人手!)、コンバインが田んぼのなかを刈り取り回りやすいように四隅を先に手で刈る作業が済めば、大半は茫然と立って機械作業を眺めているだけになってしまうのだ。コンバインが刈り損じた畦際の稲株や抜け落ちた稲穂を拾い集めたり、機械の後ろから排出される切りワラの固まりを散らしたりする作業など指示していても、長くは続かない。身振り手振りでの伝え方が足りなかったとも思う。あるいは純粋な手刈りと違って生ワラが散らばる田んぼのなかでは、刈り損ないや落ちてる稲穂は見づらいかもしれない。稲穂を探す集中力やその作業を持続する気力を維持するのは、人によっては厳しいのかもしれない。
 それでも最も考えられるのは、落ちている稲穂そのものをほとんど大事に思わない、拾っても拾わなくても大した量でないから価値もない、という気持ちが占めているからではないか。もはや米余りのご時世、どこでも安く簡単に手に入る。ぶっちゃけ自ら作るより買ったほうが安い。確かに作業でも機械の効率を優先すれば、集めても茶碗数杯分の米などかまっていられない。
 田んぼを数十ヘクタールも抱え、2〜3人の最小人数で作業する大規模農業なら致し方ない。けれどここはたかだか5ヘクタールの田んぼに大人数が集まる。刈り終わった田んぼに忘れ去られた稲株がひょこっと頭を垂れている姿を、少し残念に思うのは私だけか。


 稲作はまさに十人十色。職員だけでなく共に働くメンバーのなかにもこれまで農業に携わってきた人もいて、それぞれのやり方やこだわりがある。それはそれで面白く参考にもなるのだけど、当然意見が異なることもあってそのやり方や舵取りに苦心させられることもある。
 長年農家の息子として黙々と働いてきた、メンバー最年長の塚地さん(仮名)は落穂を拾ってくれる数少ない一人だ。コンバインに詰まって雑草とごちゃまぜになってかき出した稲穂を、丁寧により分けてくれていた。またこびる(お茶菓子)を届けてくれたグループホームのゆう子さん(仮名)も来るや落穂が気になったのだろう、こびるそっちのけで穂を拾いはじめた。彼らにとっては、まさに一粒たりとも「生きる糧」だったのだろう。「落穂拾い」という言葉がまだ死語になっていない時代を生きてきた、機械が導入される以前の手作業や馬・牛などの畜力を使った農作業を体験している最後の世代である。
 西和賀の豪雪地帯で稲作に携わってきた広一さん(仮名)は、毎年恒例のもち米・手刈りイベント用のハセ作りでも、実践してきた知恵を示してくれた。稲を干す木と木をしばる一本の縄の縛り方は、複雑でもなく、幾重にも巻くわけでもなく、重なりごとに縄を変えるわけでもなく、さほど長くもなく簡単にほどける1本ものなのに重みが増せば増すほど締まっていく。「知識」ではなく、生きた「知恵」を体感して、久々にニンマリしてしまった。親から自然と教わってきたという本人は、アルコール依存症と闘っている。戦後から現代まで、大半の農家や農村が子や孫に継がせることなく「いかに農業から抜け出すか」を考えてきたともいえるが、「知恵」を次の世代に伝える一員として何とか頑張ってもらいたい。
 今年から銀河に通っている若手の星崎くん(仮名)は実家でも兼業でお米を作っていて、トラクターなど農機が扱える貴重な存在だ。田植前の代掻き作業のとき畦の草刈りを頼んだが、「草刈りよりトラクターとか田植機を動かしたい」と、大きな機械を操ることにステイタスを感じ、他の手作業や補助的な作業を軽んじているようなところがあった。エンジンのついた乗り物がカッコよく夢中になるのは男の性だから分からないでもないが、こちらとしてはまず色んな作業を通して適性や能力をみていきたいという考えがあり、鎌には鎌の、スコップにはスコップにしかできない作業があるということを分かってほしかった。「下積み」にこだわるわけではないが、どんな仕事でもチームワークである以上は、技量だけでなく協調性といった本人の人間性を人に認められて初めて次のステップへ進めるものだ。稲刈りも終盤に入ると要領を得たのか、田んぼのなかの草取りから手刈りした四隅の稲の受け渡し、コンバインの移動まで、こちらから指示しなくとも次の先の作業を考えながら積極的に動いてくれた姿に、感心させられた。


 収穫期になって集中的に降った雨の影響や、排水が甘かった田んぼはぬかるんでいて、重たいコンバインは泥にはまって身動きがとれなくなってしまう。毎年のことながら、そんなときに泥まみれになって鎌で稲を刈り運んでくれる大勢のメンバーは、とても頼もしく感じる。籾摺りの様子を見に来た近所のじいちゃんは、目を細めて羨ましそうに眺めていた。


 日本の稲作の機械化は、世界でもトップレベルの技術水準だそうだ。いまや衛星を使った無人の田植機の技術開発など、一足も田んぼに足を踏み入れることなく栽培ができるまでに至っている。しかし一方で、自然の素材を巧みに使った技術や知恵、あるいは助け合ってきた農村の絆といったものがすでに失われたか、失いつつある。じいちゃんばあちゃんが採算度外視で何とか維持してきた田畑や農村は、あと10年もすれば耕作放棄地が凄まじい勢いで増えて農村から人や医療教育機関がなくなり、「限界集落」となっていく。高齢者との死別は個人の問題を越えて、戦争体験や言語(方言)・伝統行事や祭事・生活の知恵といった文化や地域、人々の記憶まで失ってしまうことになる。それは我々のアイデンティティの喪失にもつながるのでは、とまで思ってしまうのは安易な感傷的ノスタルジックであろうか?
 私たちの暮らしそのものも、農業も、いやあらゆる産業も海外から輸入される石油資源に依存しすぎている。確かに機械は作業性や収量を格段に向上させたが、環境への負荷はもちろん、使い方を誤ると心の荒廃にもつながると思う。内燃機関や油圧の力は凄まじく、ともすると操る自らの力だと過信して、自然を征服しているような気持ちになる。そしてその騒音と危険性から作業者同士のやりとりは叫んだり怒号が飛び交ったりで、現場は荒々しくなる。かつて100馬力もあるキャビン・エアコン・オーディオ付きのトラクターで草だらけの荒地を耕したり、その一方で山奥のわずかな棚田で農薬も機械も一切使わず、畦の草も鎌で刈るといった徹底的に人力・自然の力だけにこだわった米を作ったり、と浅くも両極を経験してきた私は、機械作業には冷静になるよう心がけているつもりだが、それでもついカッとなり怒鳴ってしまうこともある。


 もち米の手刈りは、ザッザッと鎌で刈る音と集まった大勢の老若男女の賑やかな声が響く穏やかななか、和やかに行なわれた。意気込んで一面手刈りしたけれど予定していた時間内には終わらず、刈り束ねた稲は前日作ったはせ木では架け足りず、無理やり4段重ねにしたために整然としておらずワラのお化けのようでちっとも美しくない‥‥。「あれじゃ乾かねぇんだ」と特養の祥子さん(仮名)が呆れている。まだまだ経験不足だ。それでももち米の手刈りは、あえて手で刈り天日で干すことの意味を問う、失ってはいけないものを守り、みんなで継続していきたい場だと思っている。  

新型コンバインで3条刈り
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