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好きこそ関係の始まり…9月の職員研修を通じて【2010.10】
理事長 宮澤 健

 関根信一作の演劇「にねんいちくみ保護者会」を見に行った。
 内容は、保護者会で、運動会の障害物競走の参加者を決めたいのだが誰もやりたがらず、参加できない理由が挙げられるばかり。展開したのは、不登校の子どもの話題が出たことからだった。太鼓で頑張った子どもがクラスから浮いてしまい、それがきっかけで不登校になっていた。「がんばっていいんだってことを子ども達に伝えるために障害物競走に参加しよう」という話しになっていく。
 これは3年前に上演されたことがあり、そのときかなり感動したので「おすすめ」の演劇ということでスタッフ大挙して東京の銀座まで日帰りで出かけた。
 関根信一は劇団フライングステージの代表で、シナリオから演出、出演までこなしている。この劇団は全てゲイの人で構成されているのが特徴で、ゲイにまつわる演劇が関根信一のライフワークとなっている。彼は「ゲイの作品が社会的意味を持ち続けるかぎりゲイのシナリオを書き続ける」と言う。つまり、ゲイが社会的に受け入れられ、取り上げる必要もなくなる時代が来るまでは戦うと言っているのだ。
 そういった挑戦の情熱を根底に持った作家と劇団がつくる作品だからか、共感するものがあってこの20年あまり注目し、作品にも接するようにしてきた。ゲイであると宣言をした人たちの劇団ということは、ひとりひとりが社会に対して宣戦布告をしているようなものではないかと思う。個人的にも親や兄弟など周囲の親しい人との深刻な葛藤がなかったはずはない。つまりお気楽では生きていけない状況を自ら引き受けた人たちということだ。
 ゲイの葛藤と挑戦のドラマを描いて上演する関根信一の作品に惹かれてきたのは、自分自身がマイノリティに親和性があることも理由のひとつだとは思うが、自らの運命を引き受け戦う姿を描いているところに共感するのだと思う。
 「にねんいちくみ保護者会」は関根信一の作品としては異例で、ゲイを扱っていない。その意味で少し特別な作品である。だからか前回も自分の劇団のフライングステージではなく劇団オカミショウネンでの上演だった。前回は関根信一の演出だったが、今回は彼の手を離れた演出になっている。
 今回の演出は正直、完璧に失敗だったと感じた。ところがその失敗から関根の演出のポイントが見えてきた。
 前回同様、真ん中に机が並べられ、そこで保護者会が開かれる。その周囲を取り囲むように観客席が四方にある。
 今回の失敗の大きな原因のひとつは、現実の教室に近い形で、窓の光がそのまま入ってくる明るい部屋にしたことだ。明るい部屋は、保護者会が行われる教室というイメージをかえって奪い、現実の部屋でしかなくなった。観客はイメージを使っていいのか、現実にいなければならないのか迷い不安を感じたはずだ。
 さらに前回の上演では置いてなかった、金魚ばちや書道作品などを実際に置いたのも、教室を演出し観客も保護者会に参加した位置に置こうとする意図だろうが、これはやり過ぎで、観る側という立場を与えられ、それが守られるからこそ観客は舞台に深く参加できるという逆説が機能しなかった。同様に現実の教室がありすぎて、イメージの教室のリアルな賦活を妨げてしまった。
 最も大きな失敗は、個々の登場人物のキャラクターの描き出し方が甘かったことだが、逆にこの甘さから、関根の演出の特徴が、個々の人物の個性を極めて明確に際だたせる切れ味にあることに気がついた。
 関根信一の作品に描かれる基本は、人が人を好きになるということにある。つまりゲイの人たちはオンナのコではなくオトコのコが好きになるのだが、関根はその「人が人を好きになる」という現象をゲイを通して再度人間に迫ろうとしていると私は理解している。
 愛が形骸化したのか、男女はおろか、親子でさえその関係が揺らぎ続けるこの時代の只中で、関根の作品はゲイの人の「好き」に新鮮な感情のエネルギーを感じ取らせることで、現代人が鈍化させた暖かく甘くも真剣な感情を活性化させるというわけだ。
 関根信一はゲイ一般を語ろうとしているのではなく、「好き」を通じて個人を語ろうとしているのではないかと今回の「にねんいちくみ」をみて強く感じた。「好き」という感覚は、個人というものを成り立たせる根幹になっているはずだ。「好き」という感情をなくしては、他者も自分も含めて個人というものは生まれない。「好き」という感情は強く他者を意識し自分を発見する、素朴で強烈な体験の始まりなのだ。決定的に異なった個別の人間が、他者と繋がろうとするときに「好き」が入ってこないと始まらない。ここに関根信一の「好き」の意味が重みをもって迫ってくる。
 保護者会では職業も年齢も、文化さえ異なる人が集まり、それぞれの事情を語ってそのバラバラさ加減が晒されるが「頑張ってもいいんだよって子ども達に伝えたい」という思いが共有されたとき個々が「参加したい」に変わっていく。そして父兄として子どもの名札の前に座っていたのだが、自分の名前を書いて、誰々ちゃんのお父さんでもお母さんでもない私自身として存在して返事をして終わるのは感動させられるところなのだが、今回の演出では個が描き出せてないので、その感動が高まりきらなかった。
 銀河の里は、昨年から特養の立ち上げで苦しみ続けている。事は単純で、利用者の語りを全霊を傾けて聞くか、聞かないかだけのことである。ところがこれが困難を極めている。集団や役割で見るか、個を見るかというまなざしの違いなのだが、どこかに「好き」がないと個は現れて来ない。つまり他者も自分も存在しないまま処理だけが進められて、人間はきれいに削除されてしまう。作業は必要だが、その前に、誰が「好き」かが大事で、それがないと相手だけではなく同時に自分も消えてしまうことになる。利用者を作業の対象にするのではなく、どこか「好き」の対象でなくてはなにも始まらないのだが。  
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