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未来への新たな地平(第三回)【2010.10】
施設長 宮澤 京子

 ケアの現場が拓く新たな地平に期待を込めてこの稿に臨んだのだが、早くもつまずいてしまった感がある。周辺領域も含めて、いくらかの書籍にあたってみたのだが、実際さほど目立って新しいものに出会えなかった。
 期待したのは「物語」という視点で、医療現場においても「ナラティブメディスン」という概念が20年くらい前から語られはじめているし、そうした考えは福祉現場には医療よりも切実に必要になるだろうという直感もあった。


  この10年「銀河の里」では「物語」としか言いようのない関係のプロセスを体験し続けてきた。ところがこの「物語」を説明することが難しく、かなり曖昧に使っていてそれが何なのかはっきりしないところがあった。
 医療でも物語を意識してきているし、認知症やケアに関して、物語をキーワードに語ろうとする書籍もいくつかはある。ところが読んでみると、現場で我々が体験してきた物語とは若干違っているような感じで、若干の違いはやがて決定的に違ってきそうな気がするのだ。
 「物語とは」と定義しようとすればするほど、「里の物語」から離れていくような不安がついてくる。つまり「物語」そのものが、ずいぶんと怪しい代物?に違いない。
 銀河の里の初年度だったが、利用者が転倒して骨折し入院されたので、お見舞いに行った。病棟で看護師さんに名前を告げてもはっきりしない。「誰それ?」と怪訝な顔だ。認知症の高齢者で骨折で昨日入院されたかたですけど・・・。と説明すると「ああ、骨折ね、骨折」で話しが通じたことに驚いた。AさんはAさんではなく「骨折」でしかないのだ。これは病院に限ったことではなく、現代のひとつの様相なのだと思う。つまり1人の人間は多様で複雑な物語の塊であったり、どう展開するか予想もできない不可思議な存在なのだが、それらの人間の諸相を完璧に抹殺して、「骨折」としてしまうことで、我々は理解しやすく、操作として扱える対象に変えてしまっている。
 制度やシステムはこうした人間疎外の最たるもので、行政による福祉施設に対する指導監査や情報公表、第三者評価などは、基本的にマニュアルと書類が整備されているかどうかしか問わない。人間の生命とその関係性にまつわることから生まれてくるはずの「物語」などというものは、最初から相手にされていない。だからこそ「銀河の里」の10年の歩みの中で体験してきた「物語」に関して、言語化を試みる意味があるだろうし、そこに未来への新たな地平が拓かれるはずだとの直感にもなった。
 かつて福祉は社会的弱者を救済する慈善事業のイメージだったが、ここ10数年でサービスを売買する「契約」に変わった。これは革命的な変化だが、そうした変化とは別次元で、人と人が「出会う場」ということに本質的な変わりはない。「里の物語」は、この「出会い」から始まる関係を生きるプロセスであると考えている。
 これも初年度の事だが、全国グループホーム協会の主催で実践報告会があり、我々も、初心者ながら、現場で生まれてくる物語に感動する日々だったので、勇んで参加を決めた。ところが、発表は5分というくくりに、まいってしまった。物語はそんな簡単に語れない。全体を語ろうとすると頑張ってまとめても1時間はほしいところだ。何とか5分にしてみたものの、全く納得のいかない発表だった。さらに、会場では「最初に介護度を言ってください。そうすればだいたい解りますから」という声が出たのには、驚きを通り越して怒りが湧いてきた。大切にしたい「里の物語」が理解されないだけでなく、暴力的な現状を目の当たりにして、呆然となる思いだった。
 医療と違って(医療でさえナラティブを模索している)福祉現場は症状や障害を扱うのではなく、その人の人間全体と出会う場であると思う。それが可能性として開かれているところに福祉の意義があると思う。
 人間は様々な「語り」を持って存在している。その語りは言葉に限定されない。行動は当然として、表情や体調や、時には発汗や体温、眠りなどを通じた語りがなされる。全身全霊をかけた語りに対して、同じ地平で聴くことができるかどうかがスタッフの専門性として試されるところだ。これが難しい。知識や技術の習得とは異なる、「修行」のようなものが必要と思われる。
 こうしたある種深いコミュニケーションが、人と人のやりとりの通路によって、行き来が始まると、繋がった感じが生まれてくる。そこから新しい世界が拓かれ、舞台の幕が上がったように色んな事が起こってくる。これを関係のプロセスと言いたいのだけれど、言ってしまうとどこか違うので、所詮は体験する世界の事でしかないのだろう。
 確かに、説明して伝わる事ではなさそうで、解る人には解るが、解らない人には全く解らない。解らない人はなぜか感情的に反発しやすいのも特徴だ。5分のくくりに閉口したので、その後は独自に事例検討会をやってきたが、物語の感じになじめない人が大半で、何のことかわからずポカンとしている。わずか一部の解る人は、ものすごく心を動かし伝わって繋がれる感じがある。これもまた経験年数や資格の有無とは違った「感性」のようなもので、感度良く磨かれる必要があるのだろう。
 「銀河の里」に限らず福祉現場では、高齢者の場合「こんなところに居たくない」「だまされて連れてこられた」「良くなって退院する」「どうしてこんな目に遭わなければならないんだろう」明るい光などほとんど射さない状況で、不安な表情から出会がはじまる。障がい者も、これまでの人生で一度も褒められたことがないくらい、「ダメ、遅い、違う」などと否定的な言葉の体験しかしていない場合が多く、しかもイジメや見下された位置で傷つき続きけてきた人も多いのではないかと思う。
 そうした人生や人間と水平位置で出会うことの意味は大きいと思う。個々が抱える不条理への怒りや諦めに対して、スタッフはどこかで、「我が事」として引き受ける「覚悟」が出発点になるのではないだろうか。そこから自我を越えた「あなたと私」のやりとりが始まるように感じる。それは時に、利用者とスタッフの個を越えて、家族や、一族、地域にまで広がっていくこともあれば、利用者同士やスタッフを巻き込んで展開していく物語を紡ぎ出す事にもなっていく。そのダイナミズムこそ、切断に次ぐ切断の連鎖の上に成り立った現代社会に生きているものにとって、自分と相手を宇宙全体に繋いで行くのではないかという期待さえ持たせてくれる。
 ここまで「里の物語」をおぼろげに論じてきたが、内容がますます怪しくなってきたので今回はこれくらいに。


 次回は『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』の著書の中で、村上春樹が‘当時物語を理解してくれた人は河合先生だけだった’と述べている。この両者が理解している物語と我々の体験や体感から紡がれた物語はかなり近いと感じている。そのあたりを読み込んで考えてみたい。  
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