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おすすめの本 『坂の上の雲』【2008.08】

施設長 宮澤 京子
 

 『坂の上の雲』1〜6巻 司馬遼太郎著 文藝春秋1968-1972(産経新聞に連載)


 司馬遼太郎の長編歴史小説で、維新を経て明治という時代を生きた正岡子規・秋山兄弟の三人を中心に、日露戦争という途方もない戦いを、これら「楽天家達」が、まるで坂の上の雲を掴まんばかりに、命をかけて突き進んでいく姿を描いた作品である。
 6巻を読み終えるのに2ヶ月を要した。なぜか一気に通して読むことができず、途中にその他の本を6冊挟まなければならなかった。私のなかで初めて「私の国籍である日本」「日本人である私」そして「私が生きているこの時代」を日露戦争という歴史の視点から見つめる機会が与えられ、流し読みしてはいけない・・・「考え、考え」そして「休憩」を入れながら・・・といった感じで進んだ。折しも読み終わりは8月3日で、原爆投下と終戦記念日の真近であった。


 20世紀初頭の帝国主義の中にあって、 日本は農業の他に産業もなく資源の乏しい、極東の小さな国だった。1904年に日本が日露戦争に踏み切らなかったか、負けていたなら、日本は植民地になっていたはずだ。大国ロシアに勝ったというのも奇跡に近い。ロシアには世界最強の騎兵といわれたコサック騎兵集団と、無敵とうたわれたロシア海軍のバルチック艦隊があった。この小説の主人公である伊予松山出身の秋山好古、真之兄弟はこのふたつと戦い、兄は陸軍少佐として満州でコサック騎兵隊と壮絶に戦って破り、弟は連合艦隊参謀として、日本海海戦の作戦を練り勝利に導いた。
 初めのうち私は、この「勝利」の謎が知りたくて読み進めたが、司馬は日露戦争の勝利は、敵失も含め参謀達の綿密な計算に基づいた作戦を粛々と実行したからであるとしながらも、それは薄氷を踏むような綱渡りの勝利であり、どうみても「日本が勝ったのではなく、ロシアが妄想によって自爆して負けたのだ」と言っている。


 日本政府は、その戦争の実態を国民には説明せず、国民も知ろうとはせず、勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになった。その部分において日本は民族的に痴呆化したとも表現している。日露戦争の勝利によって、日本は近代国家の仲間入りをするが、それはとりもなおさず帝国主義の仲間入りであった。日露戦争を境にして、日本の国民的理性が後退して狂躁の昭和期に入り、太平洋戦争に突入していく。狂躁は1945年に日本の広島・長崎に世界初の原子爆弾が投下まで続き、降伏しポツダム宣言の無条件受諾により敗戦となる。
 敗戦時、戦車連隊の士官であった司馬遼太郎は、この瞬間から日本と日本人とは何かを考え始めたと言う。高い志を生きた日本人が、なぜに理性を失い狂躁的妄想にやられて堕落してしまったのか。最晩年の司馬は、「あのときより今がさらにひどいんじゃないか」と対談で述懐している。つまり日本人は敗戦の廃墟の中から信じられない尽力をして奇跡的な経済復興を成し遂げ、世界の経済大国に躍り出たが、いつもダメなのは勝った後だ。その後の冷静な分析、認識ができないまま傲慢に溺れ、理性をうしなった恥知らずな行動に走る。
 日本は長い鎖国の後、近代、現代の流れの中で国際社会とつきあわざるを得ない状況になったが、そこで大事なのは、日本人らしさや日本の文化を失わず更に深めていくことである。日露戦争も経済復興も、どん底で守りの戦いはものすごい力を発揮するものの、勝った後がひどくなる。急速に方向性を見失い自分がなくなる。


 韓国の初代文化相のイ・オリョン氏はこれらを『「縮み」志向の日本人』と言う本で論じている。拡大路線の中では日本は失敗してきたが、縮小路線では実に絶妙の生き方ができるというのだが、日本の文化は宇宙を俳句や庭園、盆栽など小さなもののなかに縮めることが得意な文化だと言う。拡大して他を脅かすのではなく、繊細で微かなもののなかに宇宙を遍満させるたり、モノを通じて命を感じる感性は、異文化や他者が共存して生きる知恵として無双の文化だと思う。この知恵を国際社会に発信する志こそ21世紀の日本の若者に求めたい。しかしその価値を今の大人は全く理解できていないのが現状だ。大人に公への大志がなければ若者の志が育つ土壌がなく、若者は個人の内側に鬱屈していく傾向になるばかりだ。


 司馬がこの本で語りたかった「楽天家達の志」───  明治維新を経た彼らが、ロシアという絶対勝てるはずのない相手にさえ立ち向かっていく志と情熱こそ、受け継ぐべき姿勢ではないかと思う。唯一の被爆国となり、戦争放棄を明文化した日本国憲法第9条を得た日本は、本気で世界に平和を語りうる国だ。現代の「楽天家達の志」は、人類の大きな敵「戦争」に対して、あらゆる叡智を結集させていくべきである。 司馬自身は映像化に対して否定的だったらしいが、夫人の許諾を得て、NHKが来年から「21世紀スペシャル大河ドラマ」として「坂の上の雲」の放送が始まるそうで楽しみだ。この映像化には、今の日本と日本人を深く見つめなければならないという意図があるのだと思う。


 戦争賛美やパワーへの信奉が強くなりつつある狂躁・妄想の渦の底にある現代日本において、必要なのは日本文化に深く根ざした若者の志ではなかろうか。国際社会に面と向かって「和を持って尊しとなす」と叫べる日本人像を期待するが、それは高齢社会のまっただ中の、介護現場において、人間の老いや死を透徹したまなざしで見つめうる、深い日本文化の奥から可能性が開かれるにちがいないと期待している。
 
 
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