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殯(もがり)の森とグループホーム 【2008.08】

グループホーム第2 板垣 由紀子
 

 銀河の里の6月の研修セミナーで、『殯の森』を観た。この映画は、会話らしい会話がほとんどなく、ストーリーで展開する作品でもない。グループホームの新人スタッフマチコと認知症の利用者シゲキさんを軸に展開する全面心理描写といった展開だ 。


 マチコはどこか影のある女性。居間に集まりみんなでお坊さんによる説法を聞くシーンで、シゲキさんが「わたしは生きているんでしょうか?」と問いかける。「“生きる”には2通りある。ひとつは、食べる、排泄する、寝るということです。」「もう一つは、実感です。」とお坊さんが答える。そして、マチコさんに「シゲキさんに触れてみてください、優しい言葉をかけてください。これが実感です。」と説く。
 お坊さんという宗教性の体現者でありながら、現代では全くその実感を失った、遺跡のような存在が作品の早い部分で登場し、「生きる」「実感:リアリティ」を語る。まさにこれは現代と現代を生きる我々の深いテーマである。生のリアリティの喪失という現代の宿命を、死の側から照射することの意味をとらえ直そうとした視点を感じる。 マチコは事故で、子どもを亡くしたことにより、笑うことはおろか、泣くことも、怒ることもできず、感情を奪われてしまった状態だが、こうした設定はマチコ=現代人、若者、現代社会そのものだ。


 マチコは掃除中、シゲキさんの鞄をさわる。それはシゲキさんの“怒り”を引き出して、突き飛ばされ怪我をして、(一つめの実感)。この仕事を続けられるかと悩む。主任は「こうしなきゃいけんことはないからね。」と言葉をかける。(生きること、にはマニュアルはない。)
 シゲキさんが木登りをしていて木から落ちてしまう。マチコがかけつけると、シゲキさんは突然走り出し、マチコが追いかけていく、二人の鬼ごっこが始まる。はじめは必死のマチコだったが、隠れては飛び出すシゲキさんを追いかけながら“笑いあう”。最後は“遊び”になり、そこに笑いが帰ってくる。(二つめの実感)


 マチコとシゲキさんが車で買い物に出かける。途中で車がはまってしまい、助けを呼びに行くが人は見つからず、戻ってみると、車にシゲキさんの姿がない。ここから二人は深い森をさまようことになる。森は、“異界、精霊、”現実の時間軸とは、ずれたところにある。周りから遮断された世界でシゲキさんは何かに突き動かされるように歩き回る。誰にも止められない何かがある。それに翻弄されながら、ついて行くしかなかったマチコだったが、どんどん突き進むシゲキさんが、川を渡ろうとした時「行かんといて〜!」と泣き叫ぶ。子どもの死とリンクして“泣き、叫ぶ”。(三つめの実感)このあと積極的にシゲキさんについて行くマチコ。二人が行き着く先は、“真子(亡くなったシゲキの妻)”( 殯)シゲキさんが求めていた場所。(殯とは喪上がりからきたことばで、亡くなった方を送る場所、またはその方の眠るところ?*要確認)そこに穴を掘り体をうずめ満たされた顔のシゲキさん、それを見つめるマチコ。シゲキさんからオルゴールが手渡され、天にかざして奏でるマチコ。ヘリコプターの音が聞こえている。
物語はここで終わる。


 ヘリコプターの音が、わたしには、現実にちゃんと戻れる、しかもリアリティを取り戻し、何かと繋がって戻れるんだろうな。そう感じさせた。いつかもう一度見た時には、自分の心境によって又違った見方をするのかもしれない。

 殯の森がグループホームを舞台に描かれたことはグループホームの現場にいる人間としてありがたいと思うし重大な意味があると捉えたい。現代社会では、ここまで深い出合いは、一般社会ではおきにくい。関係を求めない、繋がることを求めない。求められるのは効率と目に見える成果。自分を殺し、それに合わせて生きていくしかない。求められる自分を演じ、はみ出したらはじかれるのではないかという恐怖と隣り合わせで、正解を出すために脅迫的になる。それが現代社会ではないか。


 認知症の世界はその対極にある。全てが実感であり、感情だらけだ。何ものにも支配されないその自由な魂がある。それと真っ向向き合うという極限の生がある。そこに現代が失ったリアリティを回復させる根源的なエネルギーがある。その可能性を持った関係性の場としてグループホームがあると銀河の里はとらえている。 殯の森と銀河の里は全く同じテーマをもって存在していると確信できる。
 
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