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フィリピン散策記4〜そこに生きる人々〜 【2008.07】

ワークステージ 高橋 健
 

  カルカルに到着し、周辺を散策すると主要都市のセブとは異なる雰囲気を感じた。バスから降り立つとすぐに、売り子が、どっと押し寄せてくるのはセブと何ら変わらなかったが(というか、おそらくフィリピン全土でそうなのだろう)、カルカルの街並みからは身体の内奥をゾクゾクさせ、身体の感受性を鋭敏にするような「アジア臭」をあまり感じない。カルボンマーケットでは、鼻を劈かんばかりの「アジア臭」が目にするものすべてから、むんむんと立ち籠めていたが、カルカルでは残り香のような、微かな臭いしかしない。


 「はて!?どういうこった?」と、よくよく目を凝らして住居を見ると、建築様式が一風変わっている。1階は石造りで、キリストの十字架が飾られ、2階は木造で風通しが良くなるような構造になっている。セブには石造りの住居は皆無だった。そういえば、「僕の中の高速列車が今日もガタガタいいながら♪」なんて気分良く口ずさみながら歩いていて気づかなかったが、教会がやたらめったら多いではないか。


 「むむむ・・・ははぁーん」と僕はニンマリと合点した表情を浮かべた。カルカルは当時、世界に覇を唱え、7つの海を支配していたスペイン帝国が統治していた時代に繁盛したカトリックの文化を色濃く残しているらしい。数十世紀に及ぶ時間と生死を移ろう人々の営為の集積、近隣諸国との交流によって醸成されてきたフィリピン的な文化が正しく継承されず、忽然と人の家にノックもせずズカズカと土足で入り込み、飯をかっ喰らい、おまけに「迷妄の闇で閉ざされた迷える子羊達を啓蒙の光に満たされた我等が導いてしんぜよう」と要らぬ世話まで焼いてきたスペインの文化を色濃く継承している事実に頭の固いポストコロニアル(植民地)研究者は憤慨するだろうが、事はそう単純ではない。おそらくカルカルの人々は、従順にスペインの文化を受容してきたわけではないのだ。木造と石造が組み合わされた住居を見ると、彼等の「暮らし」をスペインの文化に入念に練りこんでいった姿勢が窺える。 一直線の道路をひたひたと能天気に歩き前方を見ると、川が道路を寸断しているではないか。僕は、思わず足踏みしてしまい、近づきもせずにおろおろと突っ立ていると、青年達が乗った数台のバイクが豪快に水しぶきをあげながら川に突っ込んでいくのが見えた。「なんだ、こいつらは?」とカメラをスタンバイして興味津々に近寄ると、バイクを降りた青年達が談笑している。青年達が屯している、すぐ隣では、腕白な子供達が川にダイビングして楽しそうに遊んでいる。カメラを持ってアホ面を浮かべている日本人が気になるのか、子供達が一斉に僕の周りを取り囲み話し掛けてきた。しかし地元の言語で語りかけてくるため、何を言ってるのかさっぱり理解できない。このような時は、相手の言っている言葉を柔和な表情で鸚鵡返しすれば相手の気分を害すことはないので(あくまでも僕の経験則ですが・・・)、その経験則をフルに動員すると、なぜか話し!?が盛り上がった。


 

 どういった経緯で道路が川に寸断されたのかは解らないが、日本であれば危険地帯に指定され出入り禁止になり、即座に復旧作業が開始されるような場所がフィリピンでは子供達の遊び場になってしまう。日本では人々の不安を掻き立てるだけでしかない場所が、フィリピンでは遊びを生成する場所になってしまう。アクシデントがあると、すぐに亀裂が入ってしまうような膠着した心ではなく、フィリピンの子供達のように、しなやかな心を持ちたいものだ。いくら年を食おうが子供達から学ぶことは多い。 カルカルで過ごした時間を想起しながら、このヘタクソな文章を書いているが、前景に浮かんでくるのは、一直線に続く道だ。僕の足を誘う一本の道。「僕が道を歩く」のではなく、道に呼ばれて、引き付けられていく感覚が今でも僕の身体に残っている。(続く)
 
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