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スパークリングスパーク(その3)【2008.06】

宮澤 健
 

 「悠和の杜」のファイナルイベントはその一ヶ月の間に4本のコンサートライブを開催した。1年2か月の営業期間中に行った企画イベントはどれも満員だった。演劇、音楽ライブを通じて文化の香りを街に息づかせることは障害者の使命であるとも感じてきた。それは障害を持つこと、障害者と生きるということが人生や、人間存在に対して極めて深い関心とまなざしを持つことだからだ。勢い芸術や宗教性に対して強い親和性が生まれる。それらを基盤に障害者の生きる周辺から、新たな文化創造が行われ次世代の地域が生まれる可能性がそこにあると信じる。
 時代はおそらく、障害者が社会になじむことを強制する歴史を終えていて、一般社会が、障害者の世界に入って共に生きる時代がすでにきているはずだ。現実には障害者が街に出たり、地域で存在感を持つことに対してまだまだ抵抗の強い、古い考えの人が地位のある立場を占めているので具体的な変化は時間を必要とするだろうが、時代はすでにとっくの先に行ってしまっている。
 事実、「悠和の杜」のコンセプトを深く理解してくれる人も意外と多く、強烈な情熱で応援をしてくれる人もあった。多くの方々から励ましと応援を、我々がどう活かし次の戦いに挑むかだ。それを待ち望んでくださるかたが多数おられることが解っただけでも大いなる力になる。 それにしても、一年間、店を営業するなかで強く感じたのは地域や、街のエロスの欠如だ。繋がり、生み出すエネルギーがからきしなくなっている。あるのは管理や、システム、制度、縦割り、堅苦しさといった男性社会の軋むなごりだ。東北の縄文のエロスは明治の開国とともに富国強兵のなかで叩かれ、消滅し、空を向いて威張りくさった軍人の傲慢がそそり立って、地域を軍靴で踏みにじったまま今だに支配され続けいるようだ。
 エロスの欠如、ロゴスの切断といった地域の現状の中で、障害者はどのように存在感をもたらすことができるのか。それには豊かな女性性を地域に取り戻す必要があると思う。スパークリングスパークで登壇いただいた4人の女性は現場で戦っている女性戦士である。知性と馬力、情熱、愛。それらを男が失ってしまった時代。形式とシステムにしがみついて、カスみたいな生き方しかできない今時の男に比してなんと生き生きしていることか。


 10年ほど前NHKスペシャルで「神の手を持つ男ロダン」という番組があった。ロダンは近代の象徴としてのバルザック像を芸術家協会から依頼される。天才ロダンは1年の納期を超えて苦しみ抜き、ロダンは病気だとの噂まで広がるなか4年の歳月を費やす。遂に完成した作品は、本人納得の作品だったが、グロテスクとして嘲笑され、返品となる。フランス近代の象徴としてのバルザックを天才が苦しみ抜いてその本質を描ききったときそれは男性原理の本質を表現した作品に仕上がった。それは屹立したペニスを握って空を仰ぎ歩く姿であり、それは豊かさのどん底をあえぐ現代の姿にも通じる。作品はグロテスクで芸術や、美としては受けとめられなかった。敗北を味わうロダンだが、天才が見抜いた近代のロダンのバルザック像を現代はそのまま生きているのではないか。
 近代は当時の人びとにとっては夢や希望として勢いを持っていたはずだが、天才が見抜いたのは屹立したペニスを握って闊歩するグロテスクなパワーだったのかもしれない。現代の我々はその興奮を鎮める必要があるだろう。そのために豊かな女性性が必要になる。ロダンはそのことを理解して、その作品以降、女性美を徹底的に追求して行ったのではないか。教養と美貌を備えた上流階級の多くの女性が、ロダンのその使命に応えてロダンに身をゆだね、その芸術に貢献しようとしたことは理解できる。知性のある感性豊かな女性達にとってそれは誇りであったに違いない。屋根裏に秘蔵されたロダンの女性スケッチがあくまで芸術として輝くのはそういう使命に貫かれた仕事であったからだ。しかし当時はどちらも異端としてマジョリティには理解されなかった。(続く)
 
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