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遊びを生きる場と時とその必要性【2008.06】

グループホーム第1 前川 紗智子
 

 小さい頃、夢中になって遊んでいて、気付いたら日が暮れてしまいそうになっていた、なんてことはよくあった。一度なんか、石垣の下にある小川の岸で一人遊んでいたが、薄暗くなったことに急に怖くなって家に帰ろうと思うんだけど、飛び降りた石垣がよじ登れなくて泣きそうになる。助けを呼ぶけど誰も気付いてくれない。もう必死になって、靴も靴下も脱ぎ捨てて裸足でなんとかかんとか石垣をよじ登り脱出・・・すると今度はあれ?!あぁ・・・石垣の下に靴も靴下も置いてきちゃったよ、ってことに気付いて、ちくしょう・・・と思いながらもう一回飛び降り、靴と靴下をまず石垣の上に投げあげてまたよじ登る・・・。遊びの世界に一人で入り込んでいくと、そこから帰ってくるのは結構大変だった。おままごとや人形遊びの後の片付けも。でも、遊んでいるときの、周りの世界なんて一切関係なく、ただただ自分が向かうものと呼応しているような時間が好きだった。濃密に感じられる時間。


 大人に近づくにつれ、そういう時間が少なくなっていった。時間に追われるとはよく言ったもので、しなければいけないことを片付けていくような時間の使い方が多くなる。片付けは、本当は遊びのあとにくるものだ。モノに向かい、集中して、ある世界を謳歌して、カッと熱くなった体をゆっくりと冷ましながら、そのことを整理する、また新たに一歩引いた視点からその時間を見つめ直すそういう要素を片付けは持っていると思う。でも、片付けだけで構成されているような日々になっていく。遊びを持たない片付けは、中身のない、作業としての片付けに過ぎない。そして遊びはまた違った場面で求めるように、要素によって空間も分けられていく。


 思い起こせば、銀河の里に来て間もなくの頃、大きな発見だったのは、ここにはそういう遊びの中にいるときのような、純粋にモノと対峙できる時間があって、しかもそれをスタッフが意識しながら支え、見守っているということだった。〜しなければいけないという専心義務で、すっかり萎縮していた私が、どう生きたいかを軸にそこにいる利用者に引っ張られて身をゆだね、その世界を体験する中で、まずその萎縮した状態からの開放が始まっていったのだった。


 現代は、生きて行くことが容易にセットされる。少々苦もあるだろうが、専心義務に従って、それをこなしてクリアしていけば、やがてその苦すら無痛化していく。でもそれは死んでいることと同じかもしれない。本当に生きていくのは容易じゃない。何をしたらいいのかではなく、何のため?が主となって、じゃあそれはどうやって?と、イメージ、ビジョンが描けないと進めない。そしてさらにそれを見つめ直す力も必要となる。
 銀河の里という場所は、現代社会の中で稀有な場所かもしれない。でも本当は求められるべき場所だと、私は自信を持って感じる。主体性を損なわずに、さらにその主体性としての自分自身を見つめていく中で、真の客観性をも育てていく場と時を、社会や地域、家庭に取り戻す必要があるはずだ。
 
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