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運ばれ感体験2編とグループホーム【2008.05】

グループホーム 前川 紗智子
 

 「演じる」…「うそをつく」…といった裏には、本体とか真実とか、正しさ、誠などが潜んでいる。この潜んでいることからは離れたマイナスの印象を超えて、演技や、うその中にある変身性そのものに身をゆだねたり、熟考する体験は普段の生活ではなかなかできないものだ。


 先日、小さな劇団のお芝居を見た。タイトルは「HONEY」。公演のチラシには、一人空を仰ぎ見て立ちすくむ青年に、蜜のような雨が降り注いでいる絵が載っていた。涙のような悲しみのような、でも甘い雨にうたれている、そんな感じを持った。
 それはストーリー展開でものを言わせる舞台ではなく、演者に魅せられる、まさに演劇ならでは作品だった。ある出来事を点として、過去と現在を往来するのだけれど、目の前で繰り広げられている場面の位置を見失うことがない。位置がわかるというよりも、役者がたたえているその雰囲気から位置が伝わってくる。ある出来事とは、主人公(チラシの青年)の兄の事故死なのだが、観劇後振り返えっても、その事故シーンや、事故直後、周囲の人々が味わったはずの辛いモーニングのプロセスなどは一切出てこない。
 ところが、すっ飛ばされたそれらは、見終わったあとしっかりと、悲しみや辛さとして私に残っていて、表現されていない部分がしっかり伝えられていることに気づかされた。芝居の最後、死んだ兄の記憶が、オーバーラップして主人公に押し寄せてくるシーンは、チラシのデザインの印象そのものだった。
 舞台にすっかり入り込みながらも、その一方で、あれ?この感じ最近味わった…という感覚があった。それは当日、新幹線と地下鉄を乗り継いで一人見知らぬ会場ついたとき感じたものだった。案内表示を頼りに電車と地下鉄を乗り継ぐと知らず知らず目的地に居る、運ばれ感と、舞台の過去と現在の往来についていきながらエンディングへ向かう運ばれ感が近かったのだ。
 けれど、地下鉄の運ばれ感は、冷たく空っぽで、ブツブツに途切れていて、なんだか現代社会の縮図のよう。どこに自分が位置しているか全体的、空間的な位置関係なんてない。誰とも関わることもなく案内表示に反応するだけで行ける。たどり着いた先と出発地点をつなぐものは、自分の中には残っていなくて、どうやってきたんだっけとか、目的地ですら、ここはどこなんだろ?なんて思うほどリアリティがない。
 仕組みが複雑になりすぎて、そのための説明や案内、マニュアルが必要で、そういったものに頼って生活しているうちになんだか、生き方までマニュアル化してしまいそう。便利で楽だけど、自分の外のツールを使っているにすぎず、それを使うための説明書きしか見えていない。他の手段や回り道など、全体は見えない。そうしているうちにいろんな生きる力が育たず、貧弱になる。自分でわかること、やれることって意外と少ない。
 けれども、同じ運ばれ感でも。舞台の運ばれ感は、運ばれながらも一緒に生きているような感じはあった。お話の中に入り込みながら、自分の中の感情や記憶も動き出して考えさせられて、そして最後には見えなかった部分の補完さえもできてしまう、世界の体験としての充足感。
 グループホームの現場は、まさに舞台、いつもぶっつけ本番の勝負の場。相手が今どんな場面にいて、どんな心境で、私は何を投げかけられているのか、センサーを張り巡らしてイメージを駆使して、自分の変身性をフル稼働…。…とは言ってもなかなかそうできなかったりもするし…、色々あるが…。でも、世界を体験する、そういう全体性の舞台であることはまちがいない。虚偽を超えて、生き生きとした実感が暖かさを持って互いに流れ伝わる舞台。そこでは繋がる力、いろんな生きる力を鍛えていけるはずだ。


 

 
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