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霊性の支えと日本人【2008.01】

施設長 宮澤 京子
 

 便利で豊かの裏返しのようにかさかさし始めた日本の社会のなかで、ここ7年、認知症のお年寄りと、暮らしの中にたたずむことを本分に生きてきた。そこで実感させられたことは、認知症を超越する、人間の存在の凄まじさだった。認知症ごときで、人間はその存在の偉大さを失ったり、脅かされることはない。むしろ本質的には、尊厳はさらに深く際だつことを見せつけられてきた。
 しかし、尊厳や存在といった話題は、社会でも福祉業界でもほとんど取り上げられることはないし、切り出してもほとんど通じないのが現状だ。そこには超越的ななにか、宗教性、芸術性がかかわってきて急に怪しく感じられるのはわかるような気がする。しかし人間からそれらを取り去って人間を語り得るだろうか。語り得たとしてそれは意味があるだろうか。
 日本人に尊厳や存在を語れば怪しまれ、いじめの標的にされるのが落ちなら、外国の人に語ったほうが理解されるのではないか、いやむしろ外の人は日本人の持つ超越性や芸術性を希求しているのではないか。そう考えて英語の必要性を急に感じるようになった。日本にいても英語を使う機会は少なく上達しないので、思い切って短期留学を決意した。若い人を送った方が良いと言われながら、押し切って率先垂範とばかり夏のオーストラリアにやって来た。
 最初の一月過ごす中で違和感が常にあった。それは物足りなさというか、落ちつかなさというか妙な不安定さだった。住んでいるこの町この場所に支えを感じないのだ。
 ジャングルの中に突如人口的な近代都市がつくられたのだ。歴史がないと言えばそれまでだが、そこには霊性が宿れないでいるのではないか。明るい光、青い海、広大な大陸の自然。観光としての資源は充分ではあるが、そこには光しかないのかもしれない。そうした光を求めて、日本の若者がワンサと観光にやってきている。日本人だらけと言っていい。明るさの中に飲み込まれた日本人はもはやそこに陰翳(いんえい)をとどめることがない。陰翳を失った世界は露出オーバーのしらけた光がまぶしいだけで、厚みも、立体感も浮き上がってはこない。
 異国の地に立ち、何か気持ちが落ち着かないのは、心細いとか淋しいといった事ではない。ホームシックになれるような繊細さは残念ながら持ち合わせていない。ヤワではないはずの私を揺さぶってくるのは空虚かもしれない。気がつかずに持っている心の軸、心の支えのような何かが、価値も意味もないものにされてしまうような感じ。浮ついた日本人の若者にあふれているからそう感じるばかりではない。街には神社、お寺、教会というものが見あたらない。神や超越からは切り離された土地なのだ。
 経済的に豊かになった日本人が、簡単に地球の裏側に来られる時代。カスタマーとしての対象でしかない。金だけで繋がっていることの軽薄さを、お互い隠して意識しないことにしているかのようだ。
 昨年、田植えの後、草取りで田んぼに長い時間はまっていたとき、ビジョンが現れた。今は亡き、サトコさん(仮名)やミツコさん (仮名)ギンさん(仮名)が見守ってくれていた。一緒にやっているときはただ彼女らの作業の腕前に圧倒されていたのだが、あの世に逝っても彼女らは私たちを支えてくれている。生死を超越した先達との連帯感。自然のめぐりへの信頼と畏敬、地に連なる縄文の息吹、日本には守るべき育むべき精神文化と歴史があることを異国で実感させられている。
 
 
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