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アートシーン:石川優太絵画展『Door』を見て【2008.01】

グループホーム第1 前川 紗智子
 

 ギャラリーでは、展示を見るだけでなく、そこに置いてある、他の作品展のチラシをもらってきて、さあ次はどこへいこうかと考えるのも楽しみのひとつだ。あるチラシを手にした。そこに描かれていた作品は、先月東京でムンク展を見たときに受けた印象を思い出させるものがあった。決してきらびやかではない、影の印象、でもだからこそ感じる生命感のようなもの、と言ったらいいんだろうか。その絵のタイトルは「spirit/魂」。後日、その「石川優太 絵画展 『Door』」を見に行った。
 ギャラリーに一歩足を踏み入れて、その全体の印象から、作者は想像していたよりも若い人なんだなと感じた。30代?…。だが、事実はもっと衝撃的だった。私よりたった2つ歳上なだけだった。新しさや若さの印象を受けながらも、でもそれが私とさほど年の変わらない人が成し遂げたものだとはなんだか信じ難いような深みがあった。また、そこには作者自身の美術に対する考え方や今回のテーマについて書かれたあいさつ文のようなものが置いてあったのだが、その文章読んでみても、いいなぁと思った。今回の絵画展の『Door』というタイトルには、「光や闇、生と死、日常と非日常の合間に位置する扉(Door)を開け、そこを行き来する力そのものを表現しました」という気持ちがこめられている。作者自身が「死について巡らせた想い」がテーマであり、死を通して、その死を「受容し輝きだす生命」を描いたという。
 「同んなじだ」、そう思った。私たちが「銀河の里」を舞台に、高齢者と関わる中で、見つめていっているそのものと、作者が見つめて描いているものは同じことだと思った。
 人は「死」と直面して初めて生きるんだ。そんな風に感じる。それは本当の死でなくてもいい。何かの終わり、それに伴う喪失や傷…。そういった喪失体験を通して、そこで悲しんだり苦しんだり、さらに、そこからは逃れたくても逃れられない、忘れたくても忘れられない、そうした受けざるを得なさの中でもがきながらも、受容を可能にし、そうして引き受けた先に、今までには味わえなかったような生き生きとした新たな生が広がっている。もちろん、受けざるを得ない苦しさの中で、全く支えを持たなかったら、それは本当の死を迎えるケースもあるのだろうが。人生の段階にはそういった小さな「死」が存在していて、それをひとつひとつクリアしながら、本当の死に向かっていく。「死」と直面する度に私たちの中身が濃く深くなっていくように感じる。そりゃぁ、辛いが。死を通して初めてつながれる気がする。
 死を味わうことが生きる上で実は一番大事でも、そういった段階ごとの死とうまく向き合えないのが現代であるようにも思う。忙しい現実生活に押し流されて簡単に埋もれてしまう。死を死とみなしている余裕すらなく、心を凍らせてやり過ごす。いちいち心を使っていたら、できないやつとレッテルを貼られてしまう。 Doorを開けてこちらとあちらを行き来する力や、支えを私たちは本当に必要としているのではないだろうか。
 
 
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