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「元旦」という「慎み」【2007.01】

岩手大学教授:社会学 横井 修一
 

 「元旦」というと、親(特に母)がうるさく守らせた、子供の頃の慣習を思い出します。元旦にそなえてまず大掃除。どんなに忙しくとも一通り家内を掃除し、最後に松飾りと注連縄を用意します。そして年取りの食事と大晦日の年越しそば。衣服はすべて洗濯をしたものに着替え(その当時は毎日洗濯するような家は限られていた)、親も子も普段着とは違った服装にします(「家族だけならこれでいい」と言っても「ダメ」)。といっても、時代的にも家庭的にもそれほど豊かでなかったので普段着以外の衣服もたいしたものはなかったのですが。
 年が明けると、正月三ヶ日は餅と正月料理で、何か「料理をする」ような食事はしません。正月三ヶ日は仕事をしてはならないのです(ボタンつけなどの針仕事も「ダメ」)。年が経るにつれ完全に守られるのは元旦だけになってきましたが、親と過ごす正月は私もそうした慣行を守ってきました。こうした慣習は少なくとも20年位前までは、「地方」の人々には当たり前のことだったのではないかと思います。
 家を離れて暮すようになると自分自身を律することができず、親の躾も有耶無耶になりましたが、同じ頃社会的にもだんだん「正月元旦」の「慎み」はなおざりになってきました。今日では、かっては慎しまれた元旦営業(初売り)が「消費者の要望」で盛岡でも崩れるなど、個人のもつ「消費者」(欲望)の側面が強くなってけじめはなくなりました。
 「元旦」は年月の流れに区切りを入れ、自分たちを「新たにする」日です。宗教的な教義とは関係なく、自分の日々に「けじめ」を入れ、誰もが「慎み」を大事にするということは、個人が日常的な自分を省みる機会になります。
 そして、それはまた子供たちに自分たちの欲望や個人的な判断よりも大切なことがあることを体得させる機会でもあります。大人は子供に「命じる」ばかりでなく、大人も子供とともにこうしたしきたりを守ることが、子供にとっても重みになります。今日、子供・青年の「無軌道」が問題にされるとき、こうした一見ささやかな「しきたり」のもつ躾の意味を考える必要があるのではないかと思います。
 ともあれ「忙しい」と思っていると、目的合理性(「損得」「便利」「快適」等々)がすべての基本になって、日常生活におけるけじめも忘れてしまいがちです。それが「生」の平板さ(日々に区切りがない)になり、「時間の立つのが早い」と感じるのではないかと思うのですが、私自身はこの元旦も「また一年経った」という思いが先立ちました。
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