トップページ > あまのがわ通信 > 銀河の里22年度研修第2弾 倉本聰「歸國(きこく)」


銀河の里22年度研修第2弾 倉本聰「歸國(きこく)」【2010.08】

理事長 宮澤健
 

 倉本聰の「歸國」を観た。最上質の演劇だった。
 全国公演の一環で、車で一時間程度の胆沢文化創造センターで上演とされるというので、職員28名で見に行くことになった。東京に出かけるとなると交通費がかかってしまうばかりかチケットも安くはない。チャンスとばかり大挙しておしかけたのだった。この日は、銀河の里の2大イベントのひとつ「夏祭り」の当日でもあったので、体力的にはみんなヘロヘロだったが気合いを入れ直して、会場に入った。
 物語はこの夏、東京駅に幻の軍用列車が到着するところから始まる。列車には太平洋戦争で散った若き英霊達が11名乗っていて、今の日本の繁栄と豊かさを検証する目的で、それぞれの故郷や思い出の人を訪ねるという内容だ。 渋谷の街角などで、はじけた若者の大軍とすれ違うとき感じるのは、わずか数十年前、同じ年代の若者達が特攻兵として散った現実のコントラストに対する違和感だった。今の若者をみたならば、太平洋戦争で散った若者達はどう感じるのだろうと思わずにはいられない。
 倉本聰は演劇「歸國」を通じてそうした思いを実現してみせてくれた。劇中、英霊とは死者でもなく生者でもない、言わば逝ききれず、この世に情念を残したいわゆる幽霊たちなのだ。あまりに理不尽な死は、憶劫の理不尽な別れなどの情念をこの世に止めてあちらに行けないまま霊界を漂っているのか。 彼らは意志とは関係なく、否応なしに、国のために死地に赴かねばならなかった。そして故郷に帰りたい、恋しい人、愛しい人に会いたいと希いながらかなわず散った。彼らは言う「感謝してほしいとは思わない、しかし忘れないでほしい」確かに忘れるということは彼らの死を犬死にとして捨て去ってしまうことだ。
 現実に現代の我々は彼らのことは全く関係のないこととして生きている。物語上は太平洋戦争で死んだ英霊たちとの関係を描いているが、本質的には我々は死者達とどう生きるのかというテーマを掲げ、命の繋がりをとらえる叡智の欠如について問うていると感じた。
 死が終わりとしてしかとらえられない時代にあって、生への執着が増し、死の敗北感ばかりが強くなる。我々は死の意味に対してあまりに無知で、死の儀式の最も幼稚な時代を生きていると指摘する人もある。
 介護の現場では別れは少なからずやってくる。銀河の里10年、そこで経験した死別は果たして、終わりや、敗北であったかというと、体験としてむしろ全く逆ではなかったか。旅立ちの準備を整える日々に、あがきながらも添わせてもらえたと確信できるケースがある。そうしたとき死は敗北ではなく生の凱歌として響いてくる経験をしてきた。死者ほど揺らがず確かに生者を支えるものはない。
 先月、特養でお一人を見送ったが、チームとしてはまだ途上で立ち上げ段階で苦労しているので、添い切れたとは言い難いく、申し訳ない限りだが、個人としては深い出会いのなかで旅立ちへの準備に同行できたところもある。そうなると生きていても死んでも変わらない境地に達したりする。そうした場合それは、終わりではなく、正に始まりではないのだろうかと感じたりする。そうした関係を生きることができたとき、お互いに生死を超えた関係のなかで、支えられ続けるに違いない。
 このところ全国的に、高齢者の所在未確認者が増えている。孤独死は年々増加し社会問題になっているし、墓を継いで守る人がいないので、自分の代で墓を閉じる閉墓なども一般的になってきた時代だ。 我々は死者を初めとして、あの世や、異界や、たましいなど目に見えないものとの繋がりを次から次に失ってしまって、ついに、親子や家族といった、本来切れるはずのなかったものの関係が切れてしまう現実に直面している。
 先日、女性スタッフが、ショートステイの予定のご夫婦をお迎えに行ったところ、おじいさんが「ショートに行かない、誰が決めた」と怒っていて奥さんを殴っていた。間に入った職員も殴られて、ケアマネージャーに連絡するが、休みで現実的な対応はできず、旅行先の息子さんに連絡をした。息子さんは電話の向こうで「なにをやっているんだ。金を払っているんだからちゃんと連れて行け、男の職員にやらせろ」と居丈高な態度だった。おじいちゃんの気持ちや感情、思いは全く取り上げられる事はない社会になっている。
 関係を切ることによって便利は率直に生まれる。つまり今の極めて便利な社会は面倒な関係を切ることの積み重ねでできあがってきたのだ。それを極めて端的に享受できる我々は果たしてそれで幸せなのかと問われることになった。肉親など親しい者の人間関係ほど面倒なことはない。それを全部たたききってしまえば、便利になるのは当然だが、それで良かったのかと問われないわけがない。
 便利の局地が制度やシステムだ。大半の施設やケアマネージャーなどケースワーカーが役所や制度の側にしか立っていないといつも感じさせられてきた。そんななかで銀河の里は個々の関係を繋ごうとしてこの10年やってきたつもりだが、逆風の勢いは増すばかりで関係機関や同業者との隔たりは増すばかりか、違和感が強く、イジメの嵐の中で翻弄されている。無視と陰口と仲間外しが黒魔術の常套手段だが、それらに惑わされずに戦い抜くタフさが要求される。タフの源泉は英霊達の妖力を借りるしかないだろう。あらゆる死者を我らの見方にして戦うしかないと思う。
 劇中、老いた海軍少将と英霊が会う場面があった。元少将は多くの部下を死なせた事を悔やみ、生き恥をさらしていると悔い、自死を考えながらもできなかった自分を責めている。英霊達への供養に送り火をしようとするが、施設の介護者がやってきて「館内は火気厳禁ですから火を燃やすのはダメです」と取り上げられてしまう。施設の介護者にとって、この元少将の「送り火」は認知症の危険行為、問題行動に過ぎないのだ。こうした暴力が日常的に当たり前のように行われているのが施設というところだということを、繊細な作家は見抜いているのだと思う。
 こうした残虐の裏にはいつも紋切り型思考がある。私自身福祉施設で地獄を見た体験があるが、そこには「施設側が絶対的に正しい」という紋切り型の考えがあった。英霊になった兵士達が戦地に送られたのも、鬼畜米英、神国日本などと言った極めて単純な紋切り思考の土壌があった。紋切り思考や割り切り思考は必ず暴力を呼び、残虐行為に至り命や魂を傷つける。人間は本来そう単純ではない。そこが理解されないと一気に正しいことが単純に掲げられて、人の心を抑圧する。暴力や残虐行為はほとんど行為する当人の意識を越えて実現してしまうのが恐ろしいところだ。
 人間の関係を生きる形は、複雑系か混乱系といえるような様相を持っているはずだ。劇中でも扱っていたが「便利」が全てを紋切りの単純系に代えてしまった。それが幸せかと問われると厳しいものがある。便利を深めながら、我々は孤独の深みを掘り続けているようなものだ。
 英霊達は、自分が守ろうとした国や故郷の現代の子孫の生き方を目の当たりにして驚き葛藤する。そうした悔恨に似た英霊の心の苦しみを描き出すのに、「能」に似た構成をうまく使っていると感じた。劇中には能のワキにあたる登場人物が二人いる。能ではワキは諸国一見の僧であったりするのだが、それは単なる俗人ではなく、多少異界や異次元に関わることに親和性のある人物が選ばれる。「歸國」では通信兵と、検閲兵がその役になるのだが、単なる兵士でもなく、民間人でもない中間にいる人物をそこに置くことで、異界の事情や英霊の情念はよりリアルに観客に伝わっていく。
 能では、ワキは問いを発した後、しばらく身じろぎもせずシテの謡と舞が延々と続く場面が多いが、それはワキに現れたイリュージョンを通して観客が異界の情念、幽霊などと接触していくしかけなのだ。歸國のワキ二人はじつによく語るのだが、それにしてもワキとして実によく機能していた。
 異界の情念をそのまま労働を核とした現実世界に持ち込むことははばかられる。そこにワキという中間領域の人物がいることが実に重要ではなかろうか。福祉施設というのは現代の社会においてこうした中間領域の役割を担っていると感じてきた。スタッフはワキで施設は橋がかりということになろうか。あちらとこちらを繋ぐ役割だったり、あるいはあちらでもこちらでもない領域からの視点を持つことは、現代から未来を見通すのに欠かせない仕掛けになってくるはずだ。そうしたまなざしを失って久しいところに、現代の悲惨がある。英霊の情念に思う存分燃えさかってもらいたいし、我々は中間領域の存在として目に見えぬものを見、形なきものを感じて行けるようでなければ、たちまち紋切り型の餌食になって惨殺されかねない。

 

あまのがわ通信一覧に戻る

このページの上部へ


〒025-0013 岩手県花巻市幸田4−116−1
TEL:0198-32-1788 FAX:0198-32-1757
HP:http://www.ginganosato.com/
E-mail:l: