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「腐れ、ねじれ、よじれ」と「ふしぎ」【2010.08】

施設長 宮澤京子
 

 子どもの頃、私の家では兄弟が多かったこともあり、リンゴを木箱買いをしていた。箱は籾殻がクッションとして敷き詰めてあり、子ども達みんなが集まって、籾殻の中に手を入れてリンゴを探り当てる。大きいだの小さいだの、紅いだのシミがあるだの騒ぎながら、くじをひくみたいに盛り上がる。
 リンゴをズボンでこすって艶を出して丸かじりする。今のように、食後のデザートとして1切れ食べるといったお上品な食べ方ではない。取ったリンゴが腐っていても、取り換えは出来ないルール。腐ったリンゴを取った場合は、バッサリとナイフで切り落とし、食べられる所だけ食べる。元に戻して取り替えることは固く禁じられていた。腐ったリンゴは良いリンゴに悪い空気を送って腐らせるから、戻してはいけないのだ。
 緩衝材として使っていた‘籾殻’は、接触を断つという点でなんと智慧のある保存方法だったろう・・・リンゴは、腐った部分をナイフでばさりと捨てられるが、「腐れ」の空気が人の集団に感染すると取り返しはつかなくなる。
 「腐れ」「腐敗」と似て非なるものに、「発酵」・「醸造」がある。腐れとは違って、発酵がうまくいくと、味噌・醤油・酒やヨーグルト・チーズといった有効で有益なものに変身するのはすごいことだ。これもまた智慧に満ちた技だ。里においても「腐れ」の空気が充満するときがある。そうしたとき活躍が期待されるのが、空気を一瞬のうちに変えるトリックスターだ。里では個性全開のフクさん(仮名)や剛さん(仮名)が、意識的・無意識的あるいは脅迫的に、人の気を一心に己に引きつけ、笑いや怒りの渦をつくってしまう。彼らと共に、私という「存在」をかけて、「腐れ空間」を「醸造空間」に変身させる物語の一遍を紡いで行くことができるのではないかと期待している。


「ねじれ・よじれ」
 子どもの頃は、古い毛糸のセーターをほどいて、糸巻きの手伝いを良くやった。必ずどこかで糸を絡めてしまう。複雑になる前にほどけばいいのだが、こんがらがってしまうとやっかいこの上ない。
 「あーだ・こーだ」といろんな人の手に渡り、やっとほどけたときには、歓声が上がる。どうにもならないときには、はさみで切断と言うこともあり、そんなときは、パズルが解けなかったときのような悔しさが残る。ねじれ・よじれという状況に陥った場合、自分の短気さや不器用さも加わり腹立たしくなるが、どこか解く楽しみや一本に繋がった時の爽快さや達成感もあって、糸をほどくのは嫌いではない。
 また、ねじれをアクセントとしてあえて模様に使う場合もある。桃子さん(仮名)のカーディガンのねじれは躍動感があって、実に個性的だ。また、ねじれ花を見つけた武雄さん(仮名)のアイロニーに、職員一同しびれてしまったこともあった。 どちらもねじれすぎないのが大事なこと・・のようです。


「ふしぎと謎解き」
 里で起こっている出来事は「謎かけ」に満ちており、利用者、スタッフ入り交じった喜怒哀楽が交錯する豊かな世界に導かれる。認知症の周辺症状に「妄想や作話・虚言」が挙げられるが、その世界から迫ってくる言動に対し、現実に張り付いた頭で、事実や常識、果てには社交を持ち出して正そうとしたりすると、ますます興奮させ、疑心暗鬼にさせて収拾がつかなくなる事がよくある。その方を揺さぶっている、沸き上がるエネルギーに圧倒され、「事実」と「虚構」の境界が崩れるところから、里の舞台は開演となる。
 そしてそこからが、スタッフの現場における専門性が問われる真剣勝負の場となる。その方の語りや謡いから、時代や場所という舞台の場面設定をし、登場人物と自分の役割理解を深めながら「謎解き」ともいえる多様な物語を紡いでいく仕事がはじまる。  昨年来、爆発的な販売量を記録し、日本中が注目した『1Q84』の著者 村上春樹が、雑誌『考える人』のロングインタビューの中で、「謎」に対する正しい答えや解答を求めても無駄で、読者がそれぞれ自分なりに謎を違うかたちに置き換えていき、一つの仮説「そうかもしれない」という、ある種の風景が見えてくることが大切であると語っている。正に里の「謎解き」に共通するまなざしがある。謎を通じて物語を展開し、新たな地平の風景に到達しなければ野暮と罵られても仕方がない。
 また、村上春樹が80年代当時、「物語」の意味を理解してくれたのは河合隼雄氏だけだったと述べている、その河合氏の著書『物語とふしぎ』のなかでは、ふしぎが物語を生み、ふしぎが人を支え、「私」のふしぎを追求していくとたましいのふしぎに突き当たると語っている。物語には「ふしぎ」がキーワードとしてあることや、たましいを見据えた視点は里の「物語」とも通じる。私自身、『物語とふしぎ』で河合氏が語る児童文学の持つ魅力に引き込まれてしまった。
 河合氏が言うように、この世でしか通用しない地位・名誉・財産といったものに執着している姿に、「いったいそれがナンボのことよ」と、たましいの側は語りかけてくるとしたら、あちらに持って行けるものが何なのかを考えてみることは、現実の生き方に深みを持たせてくれるに違いない。
 施設における評価や指導として行政指導監査や情報公表、第三者評価などが取り入れられて久しい。そこで使われるチェック項目に合わせて施設管理の精度をあげ、より平準化していくにつれ、現場で起こっている人と人の出会いや、魂の出来事からリアリティを奪い「物語」を消し去り見えなくしてしまう。魂を揺るがすエピソードに充ち満ちている現場が福祉の現場であるはずなのに、無理に客観的な評価基準を当てはめてしまうから、人間的なことや、こころのこと、ましてや魂の出来事などはたちまち色あせて消滅させられてしまう。実に残念であり、お粗末としか言いようがない。
 そんな憤りにかられるとき、「それがナンボのこと」と言えたら、どんなにすっきりすることだろう。魂は常に、この世の価値に対しそう語りかけているはずなのだが。
 現実社会では、労働や効率そして成果に汲々とせざるを得ないので致し方ないとしても、福祉施設くらいは魂に近い中間領域から、「ナンボのものよ」と語りかけ続ける必要があるのではなかろうか。

 

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