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能楽ライブ【2010.06】

理事長 宮澤 健
 

 賢治を題材にした新作能「光の素足」の作者としても活躍されている中所宣夫氏の能楽ライブが北上の慶昌寺で行われたので参加した。「光の素足」は7,8年ほど前だったか花巻でも公演され感動した記憶がある。その後2007年には千駄ヶ谷の国立能楽堂でも上演されて話題になった。
 このお寺での能楽ライブは5回目ということで、鼓などはやし方や謡いなどのそろった上演ではないが、能のおもしろさをワークショップ的に伝えようという興味深い企画である。能楽ライブでは、普段の能舞台ではあり得ない、間近で舞が舞われ、鏡の間で行われる能面を当てる場面も見られるのだから裏と表を一度に見ているような心地になる。
 今回のテーマは能面の表情の奥深さや豊かさを味わおうというものだったが、童子面という能面が使われる能演目3つをダイジェストで3人のシテ方が披露し、そのあとで観客から質問に応じて解説をするという展開だった。
 「能面はシンメトリーではないと本でよんだがどうか」という質問があり、シンメトリーでは豊かな表情が出ないので、厳密には左右対象にはなっていないものだとか、面うちの人によると、橋がかりを渡って出てくるときはかげりのある感じを、演じて引きあげるときは晴れやかな感じを出そうとする工夫が念頭にあるので、陰陽でいうと向かって左側が陰で右側が陽になっているなどと面白い話しが出る。
 「能面のような」という無表情の意として使う言葉は、能を知らない人が使ったまちがった言葉で、能面ほど豊かな表情を表現するものはなく、世界中の多くの仮面劇の中でも飛び抜けて繊細な表現を可能にした、最も豊かな表情を持つものだという話しもでた。確かに能面は派手な表情ではないから、その抑制された表情が「能面のような」という言い回しにつながったのだろう。その抑制の奥にこそ微妙な感情が豊かに表現されうるという逆説を、我々の先人は知恵として見抜いていたのではないだろうか。我々はその面に隠された微かな表現を豊かな表情として受け止める事のできる感性を持った民族と言うことができるのだろうが、「能面のような」と誤った表現が日本語にあるということは、やはり誰もが理解できるのではなく、ある種の人々に特化した形でその感性は活かされたと見るべきなのか。 我々は今の時代、西欧的な派手な表現になれきっているから能の微妙な表情を感じる感性が萎えているのは間違いないが、昔の人でさえ能面の豊かな表情を読み取れる人は限られていたのかもしれない。悲しみや恨みなど心の微妙な動きは抑制の効いた表現の奥に微かに伝える事でしか本当には伝えられないのだといった美学的な知恵をそこに感じる。 我々の現場では、ユニットケアでも障がい者支援においても、本人の意志の尊重が声高に叫ばれるようになっている。それはそれで間違った方向だとは思わないが、人間という存在がそれほど単純でもないことを、支援する立場にあるものは理解しておく必要があるだろう。 言葉を単に意志として受け止めるだけでは、本人に責任を押しつけて、体よく支援者としての責任を回避することにさえなる。表現のその奥に微妙な陰陽が豊かに息づいていることを知らなければ、「能面のように」という言葉のような、本質を見落としてしまう轍(てつ)を踏むことになってしまう。ともかく現場にある支援スタッフとしては微かな表情の中の豊かな心の表現を見抜く感性とそれを生かす訓練が必要とされることは間違いない。
 長い間秘めてきた深い思いや、自分でも気がつかないでいた思いがけないことを語りうるには、それなりの「場」と「時」と「相手」が必要である。能面の抑制された表現が、豊かに語る舞台となるには、それなりの役者と観客が必要であるように。支援者としての我々はそうした時と場を保証する使命を持っているように感じる。それは自分自身が厳しく問われる瞬間でもある。自分がどういう人間として、どういう態度でその人に向きあうのかが決定的に重要になり、まさに生き方そのものと自分自身の存在が問われると言ってもいいだろう。
 こうした状況はおそらく能役者が能面と向きあう緊張感や関係性に近いのではないかと前々から想像していた。能役者はおそらく、鏡の間で、これから演じる能面と向き合い、憑依の状態にせまることでそれになりきり、舞台で、微かな面のかげりや照らしの表現を通じて豊かな感情を伝えるのである。鍛錬、修練によってのみなされる技であろう。
 そこで私は、能役者と能面の関係性について尋ねてみた。能面の面(おもて)を見ている観客としての私と、面を当てている能役者では面と裏の関係にある。裏は能面の裏というフィジカルなところから、能面の内面としての役者の存在自体という内的な深みまで考えられる。能役者の解説はフィジカルな所では、当てやすい面や妙になじむ面などいろいろあって、面との違和感のないときほどいい内容の能になるような気がするということだった。鏡の間で面を当てるとき、能面に一礼するが、それが、形式としてではなく儀式としての一礼になる必要があるという。演目が決まった時点から、その能面と向きあう時間をとることもあるという。世阿弥の時代から伝わった古い能面などは、魂が宿っているようで、その能面の生きた時代の重みに役者が引きずられたり支えられたりすることもあるなど興味深い話しだった。
 この能楽ライブを通じて、我々の現場でも「こうして欲しい」と言った自我意識に基づく意志などというあからさまな表現よりは、微かな表情の中にこそ豊かな感情を表現しうるという逆説的なことが重要な仕事となってくるのではないかと感じた。言わば利用者の舞う人生の能舞を「能面のような」といった表層で取り違えることなく、深い表現として味わい受け止めることができうるかどうかが問われるはずなのだ。  
 

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