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未来への新たな地平(第二回)【2010.06】

施設長 宮澤 京子
 

 ケアの文化的意味を考えるにあたって、最近の著作をあたってみたが、多くの本があいも変わらずの制度論だったり、10年以上も昔の理論の塗り直しだったりする。その中でわずかではあるが新たな地平を見いだすような興味深い挑戦を試みている著作も出てきている。それらを紹介しつつ、現場にある者としての考察を深めていきたい。まず今回紹介するのは『ケアを問いなおす』 深層の時間と高齢化社会 ちくま新書1997広井良典 著 である。


 福祉や介護の現場で「ケア」という言葉が使われるとき、狭義の介護や看護の技術論的イメージをもつ方が大半であろう。それは、ケアが「もの」や「技法」といったシステマチックな視点でしか語られていないことによるのだろう。また、一般で使われる「スキンケア・ヘアケア」といったパーツとの組み合わせで使われているケアという言葉が浸透してしまっており、今となってはケアから「人生」や「存在」をイメージさせることは難しいように思われる。だからこそ、この『ケアを問いなおす』という著作は、表層的かつシステマチックにしか使われていない「ケア」を、本質的に問いなおそうと挑戦した大変興味深いものだと言える。


 内容は、曖昧に使われている「ケア」を語源から紐解き、本質を引っ張ってくる意図が最初にあり、次にケア論として学問的に論ずるときのレベルを三つに整理・分類している。一つは臨床的・技術的レベルとして介護技術・看護技術・カウンセリング手法等、二つめは制度・政策的レベルとして介護保険制度や医療保険制度社会保障等のケアをめぐる「経済」面を含むものとして、そして最後に哲学・思想的レベルという「一体人間にとってそもそもケアとは何なのか」というケアの本質を探っていく構成になっている。
 高齢社会が抱える課題としてのターミナルケアや、家庭内から外部化されるケアが、消費分野において福祉産業・福祉関連ビジネスとして成り立つ要因やケア科学の可能性を4つのモデルで紹介し、そのモデルが相互にクロスオーバーして越境していく必要性を述べている。 ケアの舞台である「生活モデル」は、一般に「医療モデル」に比べて劣っていると考えられがちで、これらが二元対立する構図となりがちである。しかしより包括的なフレームの中で「心理モデル」や「予防/環境モデル」を加え、ケアの分野では心理モデルとの関わりをもっと重視していくべきであると強調している。
 さて、ここで考察が終わっているなら、単なる整理本でしかない。しかし著者の中で時間というキーワードそれも、カレンダー的「日常の時間」ではなく、生命そのものといった次元での「深層の時間」でケアを語ったところが興味深い。著者が語るこの本の中心的なテーマは、ケアが時間と深いところで結びついているということ。この視点から語っていくとき、意識的自我レベルの客観的・合理的な説明からは導き出せない逆転の結末を生んでいくなかで、その広がりは無限の豊かさを見せていく。
 たとえば、「私」がまずあってケアがあるのではなく、人間は「ケア」の関係の中でひとりの「個」となる。「私」が「私」であることをケアが支えている。 とか、直線としての時間というものは、実体として存在するのではなく、人間の意識が作りだした一種のフィクション、仮想的な存在にすぎない。また、私たちの生きる生は、根底において死によって支えられている。 このように「ケア」を哲学的に高めていく展開は、現場にいるものにとって非常に惹かれる内容なのだ。


 またターミナルケアに「深層の時間」という時間軸を当てることで見えてくる事柄の重要性を語っている。その時間とは、日常の直線的な時間の底に回帰する円としての時間があって、さらにその根底に「ポテンシャルとしてはひとつ」の最も深層な時間が存在するというのだ。つまり生命そのものといった次元の存在を意識化させようとしている。
 近代人の我々は、日常の直線的な時間を‘共通のめがね’として生活をしているが、これから死を迎えようとしている者にとっては、直線的な時間がいかにはかない仮象に過ぎず、死に向かう者にはまさに「深層の時間」こそが強いリアリティを持つというのだ。「深層の時間」を別な側面から見ると、意識の深い部分において、生者の時間と死者の時間がクロスする(何かを共有する)場所ではないかという。
 こうしたイメージを明確にするのに、「たましいの帰っていく場所」へ旅する老女が主人公の『バウンティフルへの旅』アメリカ映画 や、死んだ父親との再会を果たす『フィールド・オブ・ドリームス』1990アメリカ映画、そして山田太一著の『異人たちとの夏』などを紹介している。
 著者は学者として、「死者とのケアの関係」が描かれている映画や小説そしてファンタジーを活用しながら考察を深めていく。こうした次元になると、近代科学では理論的整合性がつかず、またその説明がかえって意味を失わせることになってしまうからだろう。
 我々は「里」の現場で、まさに異次元的であったり、円環的な時間の流れを日常的に体験する。たとえば90歳の女性が、働き盛りの30代になったり、お下げの女学生にもなるし、幼くして女中奉公に出されたあの日あの時に居たりと、たやすく時空を越えていく。そうしたことを本質的に理解し語ろうとすると近代科学では「妄想」「虚言」などと表層的説明に終わってしまって、理解にも語りにもならない。著者としては、そうしたリアリティは芸術作品などのイメージを使った方が伝えやすいとしてこれらを紹介しているのだが、とても共感できる。
 我々は現場のこの日常を「物語」としてつづり、「事例」として読み解き深めていくなかで、哲学的・心理的な眼差しがいかに重要であるかを実感してきた。里の暮らしや「あなたと私」という関係の中からプロセスとして紡ぎ出される出来事の持つ意味こそ、これから問いなおされるべきだと思う。
 介護現場で起こってくる大切なプロセスから「何を発見していくのか」「真に問いなおされなければならないことは何なのか」を真摯に考えようとする者には示唆に富んだ内容の著作である。


 次回は、野口裕二著『物語としてのケア』を紹介しつつ、里で紡がれている「物語」について考察してみたい。続く  
 

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