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作業と芸術【2009.11】

理事長 宮澤 健
 

 先月、盛岡で久々に英哲の太鼓を聞いた。以前、銀河の里では東京の国立劇場で4年連続した英哲4部作を聞きに行ったことがあるがそれ以来久々の英哲だった 。
  近年、太鼓演奏のユニットが多く現れ、活躍する太鼓打ちも増えつつある中で、英哲はやはり別格だと感じる。以前の英哲の弟子達による若手の公演では、始まったとたんにこれは眠れると感じた。太鼓は胎児が母体で聞く母親の心臓の音に近いとか、母の胸に抱かれて聞く心臓の鼓動に似ていると言われるだけあって、太鼓の大音響は実に心地よく眠りをさそうのだ。熟睡と言うより深い安らぎのなかでじっくりと眠れる安眠ををこのとき体験した。その眠りはとても心地よかった。
 ところが、英哲は眠らせてはくれない。英哲の太鼓には安らぎはない。彼の太鼓は切々たる祈りだと私は感じてならない。聞かせようとも、伝えようともせず無心に打ち続ける。彼の太鼓はステージから伝わってくる音ではない。彼の太鼓は観客席に向かって響くのではなく、彼の中に入っていくような印象がある。そしてステージから英哲も太鼓も消える。消えた両者はたちまち、私自身の存在の奥底から響いてくる感じだ。
 初めての公演で英哲の太鼓は前から来ない、後ろから来ると感じたのはそのことだった。英哲は音とともに内向し、あちらの世界へと沈み込んで再び私自身の魂から飛び出してくるのだ。
 彼の仕事は和太鼓を使った新しい音楽の創造だったはずだ。新しい分野を創り上げてきたとの自負は彼の中にもあるだろう。創造であるからこそ我々に感動を呼び起こさせる力がある。彼はビートやスイングと匹敵するようななにかを和太鼓を使って創り上げ、完成させたのだと思う。音の裏に刻まれる通底律を感じ心打たれるのは私だけではあるまい。
 太鼓を打っている英哲は巨人にみえる。実際は背の低い人で、普段着でロビーを歩く英哲を見かけるとそのギャップに驚く。そのくらい太鼓を打つ彼は巨大だ。
 今回の公演は「芯」というタイトルのコンサートだったが、まさにぶれない軸としての芯がそこにあり、太鼓を打つ彼の背中と首は全く動かない。もちろん手で打ってはあの音は出ないし、あれだけ長時間打ち続けられるはずがない。やはり重要なのは腰だろうし、その腰の力を太鼓に打ちつけるために背中と首は全くぶれないからこそ、全身の力が伝わって行くのだろう。
 今回の公演は英哲の太鼓だけではなく三味線、笛、尺八、長唄、歌舞伎等の日本の芸能のコラボレーションだったが、どれも上半身はぶれないで固定されることが基本にある。
 若手の人たちがここまでやれるのかと感動させられる舞台だったが、問題は、なぜ福祉施設の人間がそうした芸術や芸能を見るのか。見る意味があるのかということだ。ここは大切なところで、我々がどういう現場をめざし、どういう仕事をするのかという根本的なことに関わってくることと思う。
 現場というのは「生きる」ことへのコミットメントにつきると思う。ところが現実にはそんな面倒なことはできるだけ考えないでやり過ごしたいので、作業だけをする介護屋に収まろうとしたがる。それは単純で解りやすいが、そこで終わってしまって、その先がなくなる。なにも起こらない。結果、介護現場は3Kと認識されて専門学校には生徒がいない現状になってしまった。
 「生きる」ことや「人間」というテーマを掲げて現場で挑戦しようとすると言葉や概念で説明がつきにくく難しく複雑になる。ところが芸術は説明を必要としない。しかも人間や人生に迫り、しかも本質を突いていくことが可能である。そこに芸術の意味や価値がある。
 ひとりひとりの「生きる」に真剣に関わろうとするとき、芸術から学ぶことや育てられることは極めて多い。共通のクリエイティブがそこにはある。3Kにして終わらせてしまうか、クリエイティブのある現場にするのかの違いはあまりに大きい。どっちを選ぶのかを現場は常に問われるが、その問いを聞き流し、安易な作業に流れ、利用者ひとりひとりの語りに耳を傾けることができなくなっているのが現状だろう。その方向に流されないことはかなり困難であることも確かだ。
 一流の芸術は困難を超えて到達した輝きを持つ。現場の我々も「生きる」というテーマで芸術と同志である必要がある。現場は作業と芸術のどっちを選ぶのか、現場のひとりひとりがそのことを考えなければならないと思う。
 

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