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認知症と橋がかり【2008.12】

宮澤 健
 

 認知症のグループホームを開設して8年が過ぎようとしている。いつも感じるのは、認知症などという診断のレッテルを誰の都合で誰が貼ったのだろうかという疑問だ。
 一般の認知症への不安は増大し、認知症にならないためにどうするか、原因はなにか、治す薬は開発されるのかといった方向での議論が盛んである。それは大切な仕事として尊重されるべきではあると思うが、全面的にその空気一辺倒になってしまっている現状に辟易し、ばからしく感じることさえある。
 というのも、認知症の人と暮らしていて、その人を認知症などと意識することは現場では実際ほとんどない。「認知症への正しい関わり方」などというふれこみのガイダンスにお目にかかることがあるが、大体が笑いたくなるようなお粗末なものばかりだ。
 本来、一人の人間と向き合い、生きていくとき、認知症であろうがなかろうがほとんど関係はないはずだ。私が認知症になっても私は私だし、むしろ認知症として扱われると、「ひどい扱いだ」と騒ぎたくなるだろう。「認知症の正しい関わり方」と認知症で人間を括ってしまうことが、そもそも正しくないのだ。
 一人の人間とその人生を「認知症」などとひっくるめられてはたまらない。確かに認知症かも知れないが、それはその人のほんの一面であって、人間というのはそんなものをはるかに凌駕してその人自身であるという事実をこの8年目の当たりにしてきた。そうした人間の広大な世界を押しつぶして、認知症という狭い概念に閉じこめようと誰が何の為にやっているのか見極めて騙されないようにしたい。
 「認知症」という言葉はもはや現代の呪いだ。おうおうに、この呪いは、個人を消し、大衆の不安をあおり、人間の内的世界を無視し、治療や介護の対象として操作し扱おうと仕掛けてくる。日本全体が特に医療、福祉の現場ではかなり強烈に、この呪いにやられてしまっている。呪われてしまった人々は、醒めるまで呪い脅かし続けるので、それとの戦いが続く。
 呪いに対抗するために我々は「癒しの祈り」を持つ必要がある。具体的にどういう祈りを持てるのか模索は続いているのだが、このところ気にかかるのが能の橋がかりだ。古典をはじめ日本文化に造形の深いドナルド・キーン氏は橋がかりを「意識と無意識の通路」とと語っている。言ってしまえばその通りだとは感じるが、そう単純に言い切ると外れた感じもする。私自身も初めて能をみたときに、橋がかりを「異界と現実の通路」と直感したが、これも似たり寄ったりの当たり障りのない、解釈というところだろう。
 当たり障りのない解釈と、深みのある存在の間にははるかな隔たりがあるが、説明というものは常にその程度のものだ。「認知症」というのも本来説明に過ぎず、理解するために単純にして、医療的対応を明確にするための掛け言葉に過ぎない。つまり医療関係者の都合によって呼び習わしている記号に過ぎないはずなのだ。人間存在とははるかにかけ離れたただの記号は、返って呪いの言葉になりやすい。本当に必要なのは呪いではなく救いのはずなのにである。
 橋がかりは不思議な空間である。中間領域と言葉にすればこれまた怪しいが、橋がかりも認知症も中間領域として見事な通路だと捉えるなら、橋、場、通路としての機能を両者は共通に持ち合わせている。あちらとこちらを繋ぎ、行き来を可能にし、演じる場として役者や人間を生きる可能性に満ちている。
 呪いの充満した現代のただ中で、橋がかりに現れる怨霊や情念は、笛や鼓や謡いの音の中での舞を通して呪いを打ち砕くように思える。認知症という橋がかりを通路に、個々の個性や、性格を存分に発揮し、個々のたましいの祭典を執うことで、現代の呪いを解き放って貰いたいものだ。


『銀河の里から見た月と金星』
撮影:宮澤 健
 

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