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『殯(もがり)の森』を観て 【2008.09】

グループホーム第1 前川 紗智子
 

 私は、この映画の持つ静けさと間合いが好きだ。
 「静」、「間」それは普通は無なんだけれど、でもこの映画で感じたのは、なんだかこう、そこにすごくエネルギー?があるような、満ち満ち足りている「無」みたいなものだった。


 静かに感じるのは台詞があまり無いからだろう。でも、そこには台詞(言葉)として表現はないけれど、確かに相手へ向けられている“まなざし”みたいなものがあって、そのまなざしはもちろん相手を見つめつつ、同時に自分自身の内を深く見つめているような、そんな言葉以上のものがあるように思う。明確に言葉で表現し尽くして、その場面の広がりや奥行きを狭めることをしていない。だから、こちらの思いや記憶も動き出す。さらに、人の声が途切れたそこには、風や川、虫などの森の音があって、まるで匂いまでしてきそうな、場のエネルギーを伝えてくるようだ。その森の気配が、私の内なる森にもつながって、さらにこちらを揺さぶってくる。間合いがあることで、こっちもそこに入れてもらえる、そんな感じだ。物語の展開を追うのではなく、一緒に歩いて呼吸しているように中に入って一体化してしまう、そんな映画だった。


 この映画で描かれているのは、「人との出会い」、「関わり(融合)」、「生きているということ」の本質のようなもの。こうした題材を、認知症のグループホームと森を舞台に描いてもらえたことは、認知症型のグループホームで働くものとして有難いと思うと同時に、でも、そう!それ以外を舞台にしては決して成り立たないに違いない、というほどまでの実感がある。そう感じるのも、銀河の里で働くその中で、相手との関わりから自分がもらってきたいろんな“本物”みたいなものが自分の中にあるからだと思う。
 認知症という存在の価値、それは決して今の私の言葉ではとうてい表現し尽くせはしないけれど、あの、純粋に自分の生きるテーマにのみ開かれて、入っていき、まっすぐ進んでいくような存在は、他にはなかなか無い。
 私たちは、本質的にはそれを求めながらも、現実の生活を円滑に回し、社会の中でのあるべき振舞いを優先していくうちに、心をすり減らして生きている。自身が抱える問題は、棚上げにしたまま、気づかないようにして、息をころして生きている。そうして自分を守って、同時に自分を殺して。だが、認知症は、逆に人との関わりを常に必要としてくる。我々をもそこにいさせてくれる。その存在に、スタッフは、銀河の里という守りを得て出会わせてもらっているのだろう。


 社会の現実と、認知症の豊かな現実の、間合いに私たちは常に立っている。社会の現実の目線からでは、なかなか認知症の豊かな世界を見通すことは難しい中で、出会い、互いの抱えるテーマのリンクを可能にしたのが、現実から少し遮断され、かつ命のエネルギーに満ちている森という場ではなかろうか。さらに、森は、その中に一歩足を踏み入れると、そこがどこであれ、自分が幼い頃に得た森と同じ感触に包まれる。臭いも音も。自然のものは、社会の縛りから遠い。
 生気の蘇る出会い、それが私たちの目前にある。このことのすばらしさを、実感しつつ、この映画のように、私の立場からなにか伝えていく作業が出来たらと思う。
 

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